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SPサイトのパス請求について [WEB管理]

取り急ぎのご連絡で失礼致します。

SPのOAと、劇場公開が近づいてきたからか、PASS請求も最近とみに増えており感謝いたしております。

ただ、とても残念なことに、ものすごく熱心なメッセージを寄せてくださっているにもかかわらず、成瀬もすぐにでもパスをお送りしたい気持ち満々(?)にもかかわらず、パスをお送りできていらっしゃらない方々が、多々いらっしゃいます。

アドレスや名前を公開するわけにはいかないので、誰さんとか、このメアドで送ってくださった方とかかけないのですが、今現在までのPASS請求は、全て対応させていただいております

どなたさまも、みなさんものすごくちゃんとされた方々ばかりで、PASS請求をお断りする方など、お一人もいらっしゃらないのですが、残念なことにメールアドレスが間違っておられるのか、メールがあて先不明で戻ってきてしまった方々がおられます。

なので、この書き込みよりも前に請求したのに、今日の時点で返事がきてない!
って方は、皆様アドレス不明で戻ってきてしまった方々ばかりですので、一言「私ですか~?」って、今一度、フォームに正しいメールアドレスと、最初に請求してくださったときの名前を書いて送信していただくだけでいいので、正しいメールアドレスをお知らせ下さい、心より、お待ち申し上げております。

せっかく、丁寧に請求文を書いてくださったのに、お届けできないのは、成瀬も心苦しいので、ご確認くださいませ。。。


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SPパロディ小説(再掲)3月9日 [ドラマ「SP」パロディ小説関連]

一昨年、昨年、…の今日も、下記の通り同じようなこと書いてて、ものすごい恐縮ですが、今年も、新作の更新ができなかった<死

やっぱり、決算がすむまで、無理そうです(号泣)
というわけで、成瀬の大好きな「3月9日」を、今年も再掲させていただきますが、それだけだと、大変申し訳ないので、週末には、西島さんつながりで(は?)PASS付スペース内の、”西島さん、天国に召されるの巻”←酷すぎる、キャッチコピーを、ここで公開したいと思っております。
もう、3月9日は、去年みちゃったやい!って皆様、週末まで、お待ちくださいませ。
そして、PASS付スペースに、すでにお越しの皆様、新作ないぢゃん。。。の怒りの声、成瀬の心に、とくと留め置いておりますので、長い目で待ってやってくださいませ

本当は、新作を更新したかったのですが、時間がなかったので、SPパロディ小説部屋のPASS付スペースに展示しております、「3月9日」を、この日を記念して(は?)ここで、一般公開させていただきます~。
ええ、成瀬の勝手な、盛り上がりっつーか、3月9日記念なんで、お気になさらずに。
すでに既読のみなさまは、ごめんなさい。

PASS請求なんて、めんどくせーって思われてた方、よければ、こんな感じの作品がごろごろ並んでるページなんで、いつでもお越しください。

☆この記事を読まれる前に、まずはこのすぐ下のエントリにあります、パロディ小説をお読みいただくに当たっての注意書きか、サイドバーにあります注意書きかのいずれかを、必ずお読みいただいてから、それをご了承いただいた上で、お読みいただけますようお願いいたします。

下記小説は、ドラマ好きな、SPの一ファンである成瀬美穂の、作品をするが故の、空想の産物です。
よって、実在する作品、人物等に、一切関係はございません。
上記に関し、警告がきた場合には、即刻当該ページを削除する用意がありますので、実在する作品を害する意図は、一切ないことを、併せて明記させていただきます。

========注意書きをお読みいただけましたか?
ありがとうございます。
では、どうぞ。。。

スタート。


  『 3月9日 』




 

「卒業おめでとう、井上」
「ありがとうございます、尾形さん」


カチンと、グラスの重なりあう澄んだ音に混じって、二人の声が、その室内の落ち着いた雰囲気になじむように、落とされた。

 

 

警察学校の卒業式は、卒業後、制服警官に納まるものも、そうでないものも皆、制服を着用して、式に出席する。

なので、当然のごとく、その警察学校の卒業式に出席する側の立場で、警察官の制服に、数時間前まで身を包んでいたはずの井上は、本来、警察学校に入寮中の身であるならば、外出時は、スーツ着用が義務ずけられてはいたが。
いかんせん、卒業さえしてしまえば、そんな面倒な着替えをすることすら億劫に感じていた、服装に無頓着な井上は。
警察学校を卒業して行った者たちからは、”刑務所”と揶揄られるほど、起床から就寝時間に到るまで。
時間的拘束が厳しい毎日と、日曜日でさえ、前もって外泊先を届け出なければどこへもいけない、窮屈な全寮生活から解放された記念とばかりに羽目を外しがちな、卒業式後の打ち上げに参加するでもなく。
その、濃紺の飾り気もない、制服姿の格好のまま、全寮制だった警察学校から、大した荷物も持たずに、そこを後にしようとしていたところを。
そんな井上の、あまりにそっけない行動を、あらかじめわかっていたかのように。

警察学校を出て、駅に向かう道の途中を、制服姿のまま、一人とぼとぼと歩いていた井上は、式後にそこを通るであろうと勝手に予想され、人通りの少ない道路に停車させた車体に凭れて、そんな井上を待っていた尾形に捕まって。
卒業祝いだからと、食事に誘われ、今に至っていた。

 

午前中に行われた、警察学校の卒業式を終え。
ある程度の荷物をかたしてから出てきた井上を、食事に誘うつもりで尾形は待っていたのだから。

ランチタイムを大幅に回った時間であるがゆえに、尾形の車で連れられて入った店は、ランチタイムから普通にコースメニューを出すような雰囲気の店内ではあったが、やはりかなり空席が目立っており、どこに座っても問題ないような状況であったにもかかわらず。

尾形は、井上が同期の友人達と、打ち上げに行ってしまう可能性など、露ほども考えていなかったらしく。

…実際のところ、その尾形の予想通りになったのだが。

最初から、約束もしていない相手との食事を、店に予約を入れていて、個室を用意させてしまっていたのだから。
店に入って、尾形が名を名乗るなり、すんなりと、
「二名様でご予約いただいておりました、尾形様ですね。
お待ちいたしておりました」
と言って。
テーブルセッティングも終え、その上に、奇麗に磨かれて、室内の落とされたライトで、金色に光る”リザーブ”の札がおかれた個室へ通されてしまった井上は、ギャルソンに引かれた椅子に座ってからも、居心地悪そうに、きょろきょろと、尾形と二人しか居ない室内を落ち着きなく見回していて。

そんな姿を、尾形に軽く笑われながら、食前酒を注ぎに来たソムリエに、小さく頭を下げて、鷹揚とグラスを掲げる尾形に倣う様に、控えめにグラスを持ったところで、その言葉がかけられ、先ほどより深々と、テーブルにおでこをぶつけるんじゃないかと、尾形に内心心配させるほど。
目の前の席に座る尾形に、しっかりと頭を下げてから、細いシャンパングラスに感じよく注がれた、気泡の弾けるそれに、口をつけた。


「ものすごく、おいしいです」


一口、それを口に含んでから、自分が手にしたそのグラスを、不思議そうに眺め。
それから、もう一口それを飲み干した井上は、そんな行動をとる彼を、わずかに頬を緩めて見ていた尾形に向かって視線を上げると、嬉しそうにそういった。

言われた尾形は、満足そうに笑って答えた。

「それは、よかった。
好き嫌いは、なさそうな気はしていたが、それがイコール、酒の趣味にも反映されるとは、限らないからな」
「寮の食堂を経験していれば、なんだって食べられますよ。
逆に、あの味に慣れた舌に、いきなりこんな高級なアルコールじゃ、ギャップがありすぎて、刺激が強すぎるくらいです」
「なるほどな。
そんなに言うほど高いものでもないが、寮の食堂と比べればな」
「…すみません、比較対象が貧困で」
「いや。
国の金で食べさせてもらっておきながら、文句を言うのもなんだが、警察学校の寮は、もう少し、食堂に予算を配分すべきだと、俺も常々思っていたよ」

そんな尾形の話しを聞きながら、そっとグラスをテーブルに戻し、小さく肩を揺らせて、井上は笑い、頷き返した。

「でも、本当に、今日はありがとうございます。
っていうか、今日俺、尾形さんからお誘いなんて、受けてなかったですよね? 」

居ずまいをただし、自分の膝の上に両手を戻した井上は、尾形を伺うように上目遣いで、そう尋ねてきたので、同じようにグラスをテーブルに置いた尾形は、なぜそんなことを? といった目で、井上の言葉を促した。

「いや、他のことならまだしも。
俺が、尾形さんからの貴重なお誘いを忘れるなんてことは、ありえないと思うんですけど。
けど俺、時々、自分でもびっくりするくらい、すこーんと記憶が抜け落ちているって言うか、後で冷静になって考えてみても、自分がなにやってたのか、いまいち思い出せないときが、確実にあるんで。
まあ、それはただ単に、ぼーっとしてるときがあるんで、そのときなんだと思うんで、いくらなんでもそれはないとは思うんですが。
今回も、もしかして俺、尾形さんとちゃんと前もって約束してたのを、すっかり忘れちゃってたら、失礼極まりないなって、思ったもんですから…」


多くのSPと共に、警護課に席を置く尾形にしてみれば。
きっちりと清潔なクロスがかけられたテーブルを挟んで、自分の目の前にちょこんと座る、今朝、警察学校を卒業してきたばかりの青年が、日をおかずして、自分と同じSPとなることはわかっているのだが。
それでも、元々、自分の周りにいるような、ガタイのいい人間たちとは、正反対の、……明らかに、SP向きとは言いがたい、その内側は、それなりにしっかり鍛えられては居るものの、見た目がやけに華奢な体型の井上は、若者にありがちな大人の男になりきっていない線の細さ以上に、薄い肩をちぢ込ませて、上目使いにそう聞いてくる姿に苦笑し、答えを返してやった。


「なんでそう思うんだ? 」
「いえ、ホントいうと、確かに警察学校の寮から、歩いて駅に向かうには、あの一本道しかないんですけど、だからといって、俺があそこを通るかどうかなんて、わかってなかったはずですし、時間だって、わかってなかったはずですよね?
なのに、あまりに普通に尾形さんが、あそこで俺を待ってて下さってた、……っていうか、俺を待っててくれてたんっすよね? 」
「さっきもそう言っただろ?
井上の卒業式が終わるのを、待っていたって」
「はぁ、…それは聞きましたけど、でも…」
「でも、なんだ? 」
「でも、もし俺が、同期の皆と一緒に打ち上げに行ってたら、皆タクシーに分乗していくって言ってたんで、…そしたら俺、あそこ通らなかったはずですし」


すらすらと話しの進む尾形と違って、首を傾げるようにして言葉をつむぐ井上は、テーブルに並べられたフォークの柄の部分を、指先で手持ち無沙汰につつきながら、重い口を動かした。


「もし仮に、俺が打ち上げに行かなかったからといって。
あんまり酒の飲めない、打ち上げ不参加組みは、寮の食堂で昼食とりながら、ダラダラ話とかしてたみたいなんで。
実際、そのまままっすぐ帰るつもりで、警察学校を出たのって、多分、俺が一番早かったと思うんですけど、…そんなの、俺くらいのもんで。
他の人間だったら、あそこ通るにしても、もっと時間がかかってたと思うんですよ。
したら、尾形さん、あそこでむちゃくちゃまたなきゃですし、お昼もくいっぱぐれますよね?
っていうか、尾形さんが、ここの予約を何時に入れてたのかわかんないですけど、少なくとも、俺らが来たときの店員さんの対応を見てたら、ほぼ予定の時間通りって感じでしたし。
……だったら、そんな予見不可能な状況を、あっさりと先読みしてた尾形さんは、一体、どんな魔法を使ったのかなって、…思ったんです」


尾形に対して、失礼な言い方にならないよう、気を配っているのか。
言葉の一つ一つを、考えるようにして、ゆっくりと話す井上は。
けれど、その話しの筋が、全く的外れではなく、的確な判断の上の言葉であることに、尾形はわかっていたことながらも、眉尻を下げ。
ついで、井上が最後に言った、魔法使い扱いの自分に、軽く笑いを零して、返事を返してやった。


「さすがに、魔法は使ってないけどな」
「だったら…」
「けど、井上は打ち上げに参加することなく、卒業式の終わる時間だけは知っていた俺の予想通りの時間に、さっさと出てきて、あそこを通ってくれたお陰で、俺も昼飯をくいっぱぐれずにすんだし、ここの予約だって、無駄にならずにすんだ。
俺の日ごろの行いが、そんなにいいとは自分でも思えないが、今日はそれなりに、運が良かったんだろう。
なんにしろ、俺の井上も、今無事に昼食にありつけてるわけで、結果オーライなんだから。
だったら、別に、それでいいんじゃないのか? 」
「俺が言いたいのは、結果がどうこうじゃありません。
そりゃ確かに、今のこの状況を、俺は、…尾形さんの言葉を借りるなら、”運が良かった”ってことで、…その偶然を、嬉しいと感じています。
俺のその気持は、本当です」
「なら、俺も嬉しいよ」


言われた尾形は、クスリ笑ってそれに応じたが、井上は真剣な表情を崩すことなく、言葉を続けた。


「けど尾形さんは、さっきからずっと、自分の予想が外れる可能性なんて、これっぽっちも考えてなかったって顔ですけど? 
だったら今のこの状況は、全然、偶然の産物なんかじゃないですよね?
尾形さんにとって、この状況は、ただ、その偶然を嬉しいと思ってる俺と違って、必然だったはずです」
「必然、…ねぇ」
「別に俺、尾形さんになんか仕組まれた気がするからどうこうなんて思ってないですし。
仮にそうだったとしても、それはそれで、尾形さんがそれを必要だと思ったらそうしただけのことだと思うんで、俺は全然かまわないんですけど。
でも俺は、尾形さんがそんなことをする、その理由が知りたいだけなんです」
「随分と、疑り深いんだな」


ぽつりと返された尾形の台詞に、弾かれたように顔を上げた井上は、はっと息を呑む位の勢いで、今までの台詞を否定するかのごくと首をぶんぶんと横に振ると、後悔先に立たずといった表情で、口を開いた。


「……すみません。
なんか俺、結構失礼なこと、平気で言ってますよね? 」
「いや…」
「ホント、すみません。
せっかく尾形さんが、食事に誘ってくださってるのに。
…尾形さんだって、俺なんか相手にしてるほど、暇じゃないはずなのに。
なのに…」
「今日は、元々非番だ」
「それこそ、貴重な休みです。
今の、忘れてください。
尾形さんが、ただの偶然だって言うなら、それでいいです。
……なんかまだ、俺がこの状況についていけてないっていうか。
尾形さんとこうやってるのが、なんか信じられないって言うか…。
ホント、それだけなんで、…すみません」


もじもじと、下を向きながらそういう井上に、再度苦笑いを浮かべるしかなかった尾形が、そんな井上に声をかけようとしたところで、気遣わしげに鳴らされたドアが開き、アミューズが運ばれてきたので、尾形は開きかけた口を閉ざし、押さえた口調で離される、ギャルソンのアミューズの説明に耳を傾け。
自分の真正面に置かれたそれを、ものめずらしげに、覗き込むようにしている井上をちらりと見やってから、さらりと、…けれど、丁寧なお辞儀を残して出て行ったギャルソンを見送って、尾形は井上に視線を戻すと、同じように視線を上げて尾形を見ていた井上と、かちりと視線が絡み合い、彼の方が先に口を開いた。


「あの…」
「ん? 」
「なんで、尾形さんは、俺なんかに、こんな親切にして下さるんっすか? 」
「これくらいのこと、…親切、っていう程のことでもないけどな」
「俺、尾形さん以外の人に、こんなことしてもらったこと、今まで一度だって、なかったですけど? 」
「それはひどいなぁ。
周りの人間に、文句言ってやれ。
井上は今日、警察学校を無事卒業したわけだし、それは当然、祝うべき事柄だろ? 」
「…普通にしていれば、警察学校くらい、誰でも卒業できますよ」
「誰でもは、無理だろ?
俺だって、大昔に、警察学校を卒業はしたが。
それは単なる結果であって、もしも欠点を取れば、途中でリタイアせざるえない人間だってざらにいるし。
なら俺にも、その可能性は十分にあったはずだしな」
「…東大法学部出身の尾形さんがそんなことを言っても、全然説得力ないっす」


目の前の白い器の中央で、奇麗に盛られたアミューズに、すっと音もなくフォークを入れながら、井上にもそれを促した尾形は。
食事を口にすることで、ようやく、少しは肩の力が抜けてきたのか、年相応の膨れ面を見せてそう言った井上に、
「誰情報なんだか知らないが、…井上にしては珍しく、かなりの早耳だな。
ああ、同期の田中辺りか…」
と、軽く笑いを零してから、尾形は返事を返した。


「それに、4月から井上は、警備部警護課勤務のSPになって、警護課の4係に配属される。
そうなれば、俺の直属の部下になるわけだから。
ま、一足先に、歓迎会みたいなものかな? 」
「歓迎会、…っすか? 」
「卒業祝いプラス、…だけどな」
「けど、今日突然思いついた、…とかじゃないですよね?
ここ、予約してくださってたんっすもんね」
「まあな」
「じゃあなんで、ただの卒業祝いプラス歓迎会だったなら、そういってくれなかったんですか? 」


前のめりになって話す井上とは対照的に、ナイフの腹を使って、奇麗にソースを絡めたサーモンを口に運んで皿をあけた尾形は、のらりくらりと言わんばかりの勢いで、返事を続けた。


「前もって俺が、井上の卒業祝いと歓迎会だといって食事に誘えば、井上は、他の予定があっても、絶対にそっちをキャンセルして、こっちを優先しただろ? 」
「当たり前じゃないですか! 」
「けど、井上自身も、そのうち実体験するだろうから先にいっておくが。
俺たち警護課員に、予定なんてあってなきがごとしだ。
全てのスケジュールは、俺たち警護課員を中心に回っているのではなく、警護すべき要人のスケジュールに合わせて、俺たちが動く。
つまり、緊急呼び出しがかかれば、決めていた予定なんて、あっというまに、おじゃんだ」
「そんなこと、警察組織に身をおく養父に育てられましたんで、…俺だってわかってますから。
もし仮にそうなってたとしても、俺は尾形さんに、文句なんかいいませんよ」
「だからだよ」
「……え? 」
「もし前もって約束をしていて、俺がそれを違えたとしても、井上はきっと、何も言わない。
他の人間との、あったかもしれない約束を全てキャンセルしてまで、ドタキャンされる可能性の高い俺のほうを優先しておきながら、現実に俺に緊急呼び出しが入って、この予定が流れても。
仕事なんだから、仕方ないといって、井上は、なんでもないことにしてしまう。
それが例え自分の、警察学校の卒業式を祝いものであっても」
「…だから、警察学校の卒業式くらい、たいしたことじゃないですって」


困ったようにそう答えた井上に、尾形が返事を返そうとしたところで、次の料理のアペタイザーが運ばれてきて、二人はしばし黙った。

コトンと、テーブルに置かれた料理を、井上は、心ここにあらずな様子で眺めながら、次に何を言うべきか、いや、尾形が何を言ってくるのか、それを、考え込むような顔をしていて。
この状況で、こんな話をしていたのでは、せっかくの料理がもったいなかったかなと、尾形はふと、そんなことを自身の心うちで考えていた。


「大体、警察学校を卒業したくらい。
こんな高級そうな店で、昼からフルコースの料理を食べて、個室まで予約されるようなほどのことじゃないじゃないですか」


アミューズの皿を下げながら、閉じられた扉を見やってから、おもむろに口を開いた井上は、矢継ぎ早にそう言った。


「そんなことはない」
「……尾形さん? 」
「他の人間はどうだろうとも。
井上にとって、警察学校を卒業して、SPになることは、…たいしたことだよ」
「…なんでそんな……」
「井上は別に、安定性のある、国家公務員になりたかったわけでも。
正義の味方の警察官に憧れて、それになりたかったわけでもないだろ?
……ただ、SPになりたかった。
それ以外の選択肢は、元から井上の中にはなかった。
他のものじゃだめだから、SPになる為に、自分を磨いて、今まで生きてきたはずだ。
なら、今のこの瞬間が、大したことないなんて、決していえない。
ここに辿りつく為に、井上は生きてきたはずだからだ」
「…大げさですよ」
「本当に? 」


次の料理にナイフを差し入れながら、こともなげにそう言った尾形を見ていた井上は、小さく息を吐き方をお年気味に、大人しく尾形と同じように、料理を口に運び、わざと答えを返さなかった。
そんな井上の、多少子供っぽい対応に、唇の端を上げて見せた尾形は、放射状に並べられた鴨のローストを口に運んでから、話しの続きをした。

「それに、個室でも取っていないと、どうせ制服姿のまま帰ってくるだろう井上と、店で食事なんて、落ち着いては出来ないだろう? 
時間が遅めで、客足が少ないとはいえ、入ってくる他のお客様にも、だからといって断るわけにも行かない店側にも、…制服警官の若者と、ダークスーツの顰め面しいいい年した男が、テーブルを挟んで食事をしていたら、一体何事かと、迷惑がかかるだろう? 」
「…だったら、最初からそういって下さってたら、俺だって、もっとちゃんと…」
「ちゃんと、スーツに着替えて出てきた? 」
「それもありますけど…」
「ちゃんと、普段の自分を演じられるように、気合を入れてきた? 」
「……は? 」
「せっかく、警察学校を卒業した晴れの日なのに。
仲間と打ち上げにも行かず、寮で他の仲間と別れを惜しむでもなく。
とても、卒業式を終えたばかりの前途有望な若者とは思えないくらい、晴れ晴れとした様子じゃなく。
とぼとぼと、…自分が向かうであろう、先の行く末を予見しているかのように、暗い表情で、一人歩いて、警察学校を離れていく姿なんて。
俺が来るとわかっていれば。
不用意に、そんな自分の姿を、俺に見せたりはしなかった? 」
「……尾形さん」


始めのうちは、罰の悪そうに答えてたはずの井上は、淡々とそういう尾形を、眉間に皺を寄せて見つめ、まるで言われていたことが、そのとおりだといわんばかりに、唇を噛んだ。


「否定しないってことは、当たりか…」
「警察学校を卒業して、尾形さんの下でSPになれることが、嬉しくないわけではありませんから」
「けど、井上にとって、卒業はゴールじゃない。
その先の道を、お前の立場で、不安に思わないわけはないのは、当然だ」


皿の上をあらかた片した尾形が、するりとそう言った台詞を、宙に浮かせた視線で、暫し考えた井上は、それを否定するように頭を振って答えた。


「不安、…ってわけでは、ありません」
「ただ、これで本当に良かったのかどうか、自分でも、わからない? 」
「卒業と同時に出るような、都合のいい答えなんて、どこにもありませんから。
自分が選んだ道が正しかったかどうかなんて、どうせ、最期にしかわかりません」
「俺の差し出した手を掴んだ自分を、信じてよかったのか、迷っている? 」


カチリと、大き目の器にフォークとナイフを揃えて戻した尾形は、ふいと顔をあげると、確認するように井上にそう尋ね。
言われた井上は、さっきよりも強く首を横に振り、答えた。


「尾形さんのことは、…信じています。
多分、自分自身のことよりも」
「…それは、光栄なことだと思っていいのかどうか、…少し判断に迷うな」
「SPになることを選んだ自分を、間違っているとは思っていません。
けど俺は、自分がちゃんとSPでいられるのか、自信がないのかもしれません。
そして、尾形さんの4係で、尾形さん以外の人たちと、ちゃんとSPとして、やっていけるのかどうか。
……俺自分が、多分、そう簡単に周りに受け入れてもらえるような、まともな人間じゃないことくらい、わかってますから。
きっと俺は、尾形さんに、いらない迷惑を、いっぱいかけると思います。
だから、俺が迷っているとすれば、…こんな俺に、尾形さんの手を、差し出させたことに、…本当にコレでよかったのかって、迷っているのかも、しれません」


そういって俯いた井上に、尾形は小さく息を吐いた。
そして、途中で食事の手の止まっている井上を促すように、テーブルのむかえから手を伸ばし、皿を少し井上の意識の届く範囲に押し出して、彼の顔を上げさせると、再びカトラリーを手にした井上を確認してから、口を開いた。


「そんなことは、井上が心配する必要のないことだ。
俺は、井上がSPとしての適正を欠いているとは、全く思っていないし、ある意味、現役のSP達を凌ぐほどの力を有してるとさえ、思っている」
「けどそれは…」


大人しくフォークを動かしながら、尾形の話しに耳を傾けていたはずの井上は、尾形のその言葉に反論しかけたが、それを遮るように、尾形はその井上の声に、話を被せた。


「俺は、井上だけが持つ、特殊な感覚のことを言っているんじゃない」
「…………」
「もちろん、それだって、十分井上の力になるだろうけれど、それがなくても、井上は十二分に、SPとしての能力を有していると、俺は考えている」
「…まだ、警察学校で、SPとしての模擬訓練をしただけの、実地で初任務にすらついていない人間に対して、…それは、尾形さんの、過大評価ですよ」
「いいや。
目の前に、当たり前に転がっている危機と、それに直結している死に対して、常に覚悟が出来ている人間なんて、今の平和ボケした日本には、そうそういない。
それがいいことか、悪いことかは別にして。
そういう人間だけが、正確に、死を回避する為の術を持ち、危険に備える力を、有しているんだ。
だから井上は、SPとして、申し分ない能力を有していると、俺は思っている。
……井上自身が、そのことを、どう思っていようとな」
「俺の存在が、尾形さんの負担になることは、ありませんか? 」
「ないな」
「……だったら、いいです」


きっぱりと言い切られたその言葉に、それ以上の否定の言葉を持ち得なかった井上は、手にしたカトラリーを皿に戻し。
まるで、その瞬間を計っていたかのようなタイミングで、メインの魚料理であるブレゼが運ばれてきたので、二人は流暢な日本語で料理の説明をする、フランス人料理長の話しに暫し耳を傾け、口を噤んでいたが、にこやかな笑顔で彼が出て行った扉を確認するように見ていた尾形は。
そこに向けていた視線を、蒸し料理にありがちなソースたっぷりの皿の上を、ソーススプーンでウロウロさせながらそこに視線を落としている井上に移して、話の続きを再開した。


「何事も鵜呑みにせず、まずは疑ってかかるということは、警察官としては、それなりに必要なところだからいいとして。
ただ、信じてもいい相手と、そうでない相手を見極める必要性は、あるだろうな? 」
「見極める、…ですか? 」


そういう尾形に、ちらりと視線を上げて来た井上に、頷いて見せた尾形は、フォークかソーススプーンかと迷っている井上に、無言のうちに知らせるがごとく、右手でソーススプーンを持ち、それを味わって見せてから、話を進めた。


「誰でも彼でも、際限なしに疑ってたら、疲れてしょうがないだろ? 」
「信じることは、…苦手です。
自分を信じるのにも、大概苦労してますから」
「ならせめて、井上の配属される4係の仲間のことくらいは、信じてやってくれ」
「4係の人は、どんな人たちなんですか? 」

井上の問いかけに、少しだけ思い出すような顔をしてから、手にしたフォークを止めることなく、尾形は言った。


「4係に配属されている人間は、お前を除いて3人だ」
「意外と少ないっすね」
「4係は他と違って遊軍だからな。
それに、3人でも十分俺の手いっぱいだ」


可笑しそうにそう言った尾形に、聞いていた井上も小さく笑ってから、話しの続きを促すように、視線を上げ、丁寧な手つきで、口元に料理を運んでいた。


「石田は、…無口だが、仕事の出来る奴で、必要なこと以外は、あまり無駄口を叩かない。
不言実行で、SPとしては、申し分のない人間だから、俺も石田には、全幅の信頼を置いている」
「尾形さんが、そこまで手放しでほめる相手なんて、…すごい羨ましいですし、早く逢ってみたいです」
「思っていることの半分位しか、口に出すことのない人間だが、石田自身が、わかっていると語ることの倍以上のことを、多分石田本人はわかっていると、俺は思ってる。
ただそれが、相手によっては、”話さなくてもわかりあえる”…が、通用しない場合もある。
…身内からすれば、死と隣り合わせの職業としか思えない、…危険極まりないSPの仕事なんかを辞めてくれと懇願されても、大した理由も説明せず、迷う素振りすら見せないでNOといったばかりに、奥さんと離婚して、可愛い盛りの娘にも、仕事の忙しさもあいまって、数ヶ月に一度くらいのペースでしか、逢えていないらしい」
「…それは、寂しいっすね」
「ま、表面上は、全然そんな風にはみせないがな」
「その石田さんが、4係の人の、…その3人の中じゃ一番のまとめ役みたいな人ですか? 」
「そうだな。
ある意味、一番プロ意識が高いから、人当たりはよさそうに見せていて、その実、そう簡単に自分の懐を、他人に開くことはないが。
さすがに、人の親だけあって、周りの人間や状況を、落ち着いてよく見ているし、さりげなくフォローを入れることも、如才ない。
周りの人間も、それがわかっているから、石田への信頼度はかなり高いな。
そういう意味で、石田が井上を認めてくれれば、他の二人も、すぐにお前を、受け入れるだろうと、俺は思うよ」
「他の二人って言うのは? 」
「笹本と山本。
笹本は、女だてらになんて言ったら怒られそうだが、そんじょそこらの男が、束になってかかっても叶わないほど、力もあるし、気持の面でも、まっすぐで、早々折れそうにない芯の通った女性SPだ。
多少口は悪いが、口と心がほぼイコールで繋がっているような人間だから、井上は、笹本なら傍にいても、一緒に組んでも、ちゃんと安心できるんじゃないか? 」
「……尾形さんに、そういうのを気にかけてもらっておいて、俺がこういうのもなんなんっすけど…。
もし仮に、口と心が180度違っていても、…それはそれで、もう20年もですから、…さすがに俺も、慣れました」


ごくあっさりと、無表情にそう返した井上に、一瞬だけ眉間に皺を寄せた尾形は、それでも、すぐになんでもなかったかのように、
「そうか」
とだけ呟いて、話を元に戻した。


「笹本も、石田と同じ位プロ意識が高いから。
井上のSPとしての能力を認めたら、あとは、うまくやっていけるだろう。
俺からすれば、どこか笹本と井上は似通ったところがあるからな、…彼女と一番、仲良くやれるんじゃないかと、俺は考えている。
ただし、間違っても。
井上の彼女には、なってくれそうもないだろうけどな」


真剣な話をしていたはずなのに。
唐突にだされた、尾形のその気の抜けそうな話題に、お行儀悪くむせかけた井上は、慌ててミネラルウォーターの注がれたグラスを、奪うように片手で取り、それを飲み干してから、抗議の声を上げた。


「…なんなんっすか、それ! 」
「いや、熊田教官から、井上は合コン好きだって聴いていたからな。
違うのか? 」
「はぁ?
それじゃあまるで、俺がただの女好きで、見境なくがっついてる、下心みえみえの馬鹿男じゃないですか!
尾形さんは、教官とそんな話をしに、わざわざ警察学校まで来ていたんですか? 」
「別に俺は、井上をそういう風に思っているわけではないし。
どうせ井上は、合コンのあと、簡単にお持ち帰りして、おいしく頂いちゃったなんてことは、皆無なんだろ? 」
「……ほっといてください」


井上からの否定の言葉など、露ほども想像していないといった顔で、面白そうにそういう尾形に、ぶすくれた顔で答えた井上に、ふっと笑った尾形は、話をそのまま進めた。


「それに、その話だけをしにいっていたわけではないさ。
熊田教官は、信頼の置ける人物だし、教官なんて職務を長年やっているだけに、観察眼が鋭い。
そんな彼の目に映る人物像が、大幅に外れていることは、ほぼないからな。
教官としての立場で井上を見たときの、率直な感想を聞いておくのは、俺が井上と、今後上司と部下として、4係で付き合っていくのに、必要だと思ったからだ」
「……だったら、必要な話しだけを、してくださいよ」
「それも必要な要素だろ?
SPだって、人間だ。
SPの職務上、ストイックさを求められることは多いが、そういう人間的な部分をちゃんと持っていても、なんら問題はない。
それに、井上が俺に見せている面と、四六時中師事を仰いでいる教官に見せている面には、必ず違いがあるはずだからな。
色々、有益な情報を得られたと、俺は思っている」
「……合コン好きって話題がですか? 」
「えらくそこにこだわるな。
ただ、職場恋愛は自由だが、可能性がゼロだってわかっている相手に熱を上げたんじゃ、お前が不憫だろ?
だから、親切心で、先に教えといてやろうと思って」
「ありがたいのか、そうじゃないのか、全然わかりません」
「笹本に逢えば、すぐにわかるよ。
俺の言いたかったことが」
「…もう、わかんなくてもいいっすけどね」
「合コンで探すからか? 」
「だから、…合コンっていっても、カジュアルお見合いみたいなもんですって」
「お見合いなんかして、どうするんだ? 」
「…うまく行けば、結婚するに決まってるじゃないですか! 」
「なぜだ? 」
「…尾形さん、俺のこと、馬鹿にしてるんですか? 」
「いや」
「…幸せにならないといけないからです」
「ならないと、いけないのか? 」


尾形の質問責めに、思わず言葉の詰まった井上は、それでも、気を取り直すように、答えを返した。


「いけないって言うか、…なんか、すごい、”早く、早く”って、ここが言ってるんです。
自分でも言ってて、意味わかんないですけど。
けど、そう感じるんです」


井上はそういいながら、手にしたグラスをテーブルに戻し、そのまま、その掌を、自分の胸に乗せた。


「早く幸せにならないと、…って? 」
「…そんな気がする、…ってだけなんですけど…」
「誰のために? 」
「……わかんないですけど。
強いて言うなら、亡くなった両親のため、…っていうか、あの状況で生き残ってしまった人間の義務っていうか、なんか、そうでもしないと、両親に申し訳が立たないって言うか、自分で言ってても意味不明なんっすけど、…そういう感じでしょうか? 」
「で、結婚して、どうするんだ? 」
「……えっ? 」
「国家公務員とはいえ、SPなんて職業は、一般的には敬遠されがちだが、井上の見てくれと、SPとしての年収だったら。
井上が本気を出しさえすれば、結婚相手なんて、すぐ見つかるさ。
なら、その井上の望む結婚を、めでたくしたあと、お前はどうするんだ? 
幸せな、家庭を作る?
幸せな、家族を作る?
その、井上の言う”幸せ”って、どういうものなんだ? 」
「それは、…まだ考えてません。
…っていうか、多分、よくわかりません」


段々言葉尻が小さくなる井上に、ため息交じりの言葉を、尾形は吐いた。


「警察組織の通例で、井上の選ぶ相手を、まずは俺に審査させろなんて、ナンセンスなことを言うつもりはないが。
合コンも、お見合いも、…無駄な努力は、しないほうがいい。
本当に、自分の連れ合いを見つけなたいのなら、その答えを考えてから相手を探さなければ、…多分、何度やっても、お前の相手は、見つからないよ」


そう言った尾形の真意に気づいているのか。
もしくは、いわれるまでもなく、そのことに自覚があったのか。
これといって、反論することもなく、井上は目を伏せてから、わざとその話を逸らすかのごとく、違うことを口にした。


「で、もう一人の人は、どんな人なんですか? 」
「山本か? 」
「山本、…っていうんすか、その人」


わずかに、眉根を寄せて嫌そうな顔をした井上を察した尾形は、手を止めて、井上に尋ねた。


「なんだ、”山本”って名前だったら、なにか問題でもあるのか? 」
「いや、田中とか山本とか、…なんか、そういう、わざとらしすぎて、偽名なんじゃって思えるくらい、どこにでもある名前の人間ってのが、俺にとっては鬼門っていうか、なんていうか…」


しどろもどろに返す井上に、はははと、声に出して笑った尾形は、話題を変えたがる井上の気持を察して、明るめの声を出し、口を開いた。


「同期の田中は、井上にとって、鬼門なのか? 」
「自覚があるんだか、ないんだか。
あっさり、人の内側に入ってくる相手は、…少し苦手です」
「なるほど。
なら、山本も苦手かもしれないな。
あいつも、井上の同期の田中とは正反対の人種だが、人の内側に入ることを、全く躊躇わない人間だろうからな」
「…真正直、なんですね」
「良い様に、言えばな」


笑いを含ませた尾形の答えに、不思議そうに首をかしげた井上を見て、尾形は言った。


「山本は、井上より2ヶ月弱早く4係に配属されたから、ほぼ同期と言えるが。
山本は、目に見えるものを、素直に受け取るタイプの人間だから、最初はお前と衝突するかもな」
「俺は、人と争うの嫌いなんで、衝突はしませんよ」
「そういう態度が、余計山本を刺激しそうだが。
ま、そのうちわかるだろう、山本にも」
「………? 」
「山本は、お人よしで、素直なんだ。
そして、強いものには、純粋に憧れる。
…だから、井上の本当の強さを知れば、すぐに井上を受け入れるよ」


視線を浮かせて、考えるようにそういった尾形を見ていた井上は、食べ終えた皿にフォークを戻し、唇の両端を上げて、答えた。


「なら、俺の最初のハードルは、そんな、…ある意味、SPの枠に囚われてない、…個性的な笹本さんと山本さんをまとめてる、その、石田さんのお眼鏡にかなうことですよね? 
まあ、俺の警護態度で、そう簡単に認めてもらうのは、難しいでしょうけど。
せっかく俺なんかを呼んでくれた尾形さんの顔に、泥を塗らないよう、努力します」
「それは、大丈夫だろ?
石田は優秀なSPだから、井上の、…ありきたりの感覚で、単に表面上を見ただけでは判断できない、…SPとしての自然な動きと、潜在能力の高さには、すぐに気づくさ」
「けど、尾形さんの話を聞いていたら、きっとその石田さんは、すごくちゃんとした人っていうか、…常識のある大人、って感じですよね?
そんな常識人に、俺の態度は、不快極まりなく見えるような気が、もの凄くしないでもないんですけど…」


話をしていたから、井上より半秒ほど遅れて、メインの魚料理を食べ終えた尾形は、その井上の不安げな声に、笑いを堪えず話を続けた。


「井上は、自分が”常識”ってものをすっ飛ばしてる自覚は、あるんだな」
「…尾形さん」


大げさに驚いたフリをする尾形に、非難がましく井上がにらみを利かせたが、そんなことにはお構いなしに、尾形は飄々と答えた。

「何も俺は、それが悪いなんて言ってないさ。
ただ、そんな、ありふれた常識にかなっていない自分を、井上自身が多少なりとも卑下しているとは、正直思っていなかったから、少し驚いただけだ」
「俺だって、…普通が一番だって、思ってますよ。
…多分、他の誰よりも」
「普通ねぇ…。
何をもってして、普通というのかは、はなはだ難しいところだが。
世間の言う”普通”とやらにこだわっていたら、俺は4係の係長なんて、やってないよ。
俺は、そんな普通のSPでいるために、SPになったんじゃない」
「尾形さん? 」
「常識なんてものに捕らわれていたら、救えるものも救えなくなるし、護れるものも護れなくなる。
それじゃあ、なにも変わらない」
「尾形さんは、何かを変えたいんですか? 」
「俺が変える訳じゃない。
恐らく、もういい加減、変わらなければいけない時に来ているんだ、この国は。
…本当のことを言うと、遅すぎるくらいだとすら、思う」
「…………」
「この国の安全と水が、ただで手に入っていた時代は、とっくの昔に終わっているんだよ。
だから、それを簡単に覆して、常識の盲点をついてくる相手に対抗しえる力を持つことが、今の自分たちに求められていることだと、俺は考える。
SPがそこまでする価値が、その相手にあるのかどうか、…それを考え出したら、きりがない。
だから、今考えるべきは、それではないと、俺は思う。
護る対象の問題ではなく、SPが、SPとして、…その職務を、まっとうできてさえいれば。
失われずにすんだ人の命も、曲げられずにすんだ人の未来も、…きっとそこに、あったはずだから」


声のトーンを変えることなく、けれど、噛み締めるようにそう語る尾形を、井上は黙って見つめていた。
二人の細い息遣いしか響かない室内に、次の肉料理を運んできたギャルソンが、その雰囲気にたじろき、部屋の入り口でふと足を止めたが、すぐになんでもない風にそちらを向いて見せた尾形に、ほっと胸をなでおろしたギャルソンは、手早く料理の皿を入れ替え、部屋を後にした。

メインの肉料理からたち昇る湯気と、鼻腔をくすぐる香草の香りを放つ、白い大きな器に視線を落としたまま、静かに井上は言った。


「尾形さんは、SPの常識を覆す…。
そんな、ただの動く壁とされているSPを、…超えられる存在を、探しているんですね」


井上の台詞に、否定も肯定もせず、やんわりと微笑んで見せた尾形は、カトラリーに手を伸ばし、肉を切り分け始めた。


「4係の人は、…みんな、尾形さんが? 」


尾形の沈黙を、肯定の返事と受け取った井上は、メインディッシュにとりかかった尾形をなぞるように、自分も皿に手を伸ばし、上目遣いに、質問の意図より、確認の意味合いを深めた口調で、尾形に聞いた。
言われた尾形は、手を止めないどころか、視線すら井上に合わせずに、答えた。


「まさか。
たかが、警護課の一係長に、そんな権限はないよ」
「それは、嘘ですよね」
「井上? 」
「西島理事官は、…尾形さんより、明らかに階級は上ですが。
多分、尾形さんは、西島理事官を、動かせます」
「面白い冗談だな」
「尾形さんは、そんなはずはないなんて、頭から否定せず。
俺の能力、買ってくれてるんじゃないんですか? 」
「井上の、警察学校での訓練結果から、SPとしての才能があると、見込んだだけだが」
「訓練結果を知っている人間は、普通に考えて、俺を呼んだりなんかしませんって。
やっかいなこと、この上ないですから。
しかも、正義の為にSPになったなんてことを、言ってのけるような人なら、なおさらです」
「正義を護るために、優秀なSPになりえる人間が欲しかった。
ただ、それだけだが? 」
「それも、嘘なんですよね。
正義なんてものを、…尾形さんは、はなから信じてないですもん」


正義なんてものを信じていない人間が、警察官を名乗る。
そんな、あってはならないようなことを、平気に口にし。
それを、さも当然と言わんばかりに、そう言い放った井上を見て、少しだけ目をみはった尾形は、けれど、自分が口にしたことを、なんとも思っていない様子で食事を続ける井上を見つめ、肩の力を抜き、口を開いた。


「いやになったか? SPが。
……いや、俺の下で、SPになることが」
「いいえ。
俺は、ここ以外に、いけるところは、どこにもありませんから」
「井上? 」
「俺みたいな人間がやれることなんて、SPしかありませんし、いけるところも、どこにもありません」


話している言葉の意味を考えれば、それは酷く、絶望的なことであるはずなのに。
けれども、それを全く感じさせない。
まるで、老成した人間のような。
何もかもを受け入れ、その全てを見通したような、…そんな、達観した澄んだ瞳で、井上に見つめ返された尾形は、不意に襲い来る既視感に囚われ、瞠目し、口を噤むしかなかった。


「だから、尾形さんが信頼できるというのなら、俺もその4係の人たちを信じますが。
唯一つ、わがままを聞いてもらえるのなら、尾形さん以外の人に、俺のことは、…あまり、知られたくありません」


井上のくちびるから、ぽつりと零された、哀しい”我儘”とやらに、尾形は首を傾げて、尋ね返した。


「井上の力のことを? それとも、井上の過去のことを? 」
「……できれば、両方」
「なぜだ? 」
「…言っても、意味はありません。
っていうか、引きますよ、普通」
「まだ、直接逢ってもないからな。
見も知らない人間を、そう簡単に、信用できない、…か」
「そうじゃありません。
さっきも言いましたが、尾形さんが信用できるというのなら、俺も4係のみなさんを、信じます」
「信じてないから、言いたくないのだろう? 」
「言わない方がいいことだって、世の中には沢山あります。
信じているからこそ、言えないことだって…」
「SPの基本は、相手を信頼することだ」

 

それは、単なる理想論だといわれれば、否定のしようがない。


そんなことは、尾形だっていうまでもなく、わかっている。
ただ、それが理想だということは、それがベストだということも、真理だった。


だから尾形はそう言った。
けれど、言われた井上は、その刹那、今まで見せたこともないような顔をし、唇の端を歪めて、低い声で、息つぐ暇もないくらいの勢いで、言葉を発した。


「言えば、何かが変わりますか? 
誰かに言えば、この忌まわしい感覚を、わかってもらえますか?
そんなことは、決してない」
「わかってやれなくても。
せめて、わかってやりたいと思うことも、許されないのか? 」
「……同情ですか? 」
「まさか」
「それが同情じゃなかったら、一体なんなんです? 
確かに、両親のことを誰かに話せば、…同情は、してもらえるかもしれない。
けど俺は、そんなもの、欲しくない。
本当に欲しいものは、いつだって、俺の手には、入らない」
「…井上」
「本当のことを言えば、死んだ人間が、還ってくるんですか?
あの20年前の雨の日に起きた出来事が、全部、なかったことに、なるんですか?
そんなわけない。
言ったところで、何も変わらない。
…なら、言ったって、相手の負担にしからならないようなことを、あえて言う必要は、ないじゃないですか! 」
「言っても、何も変わらないのか?
本当に? 」
「……変わりませんよ、なにも」


気がつくと、感情に流されるかのごとく。
井上の中で、ぽっかりとあいてしまった、暗い空洞の中から、いつだって、飛び出したがっている感情の発露を、井上自身は知っていた。
その、一度飛び出してしまえば、収拾がつかなくなるであろう怒りの感情を押さえる為に、そこに大きく口を広げてあいてしまっている穴を、見ないフリをし、その上に重い蓋をして、なにも感じないように、自分を言い聞かせてきた。

けれど、尾形の口車に乗せられるように、その蓋を開け掛けてしまった自分を、とても驚いたように、ぎゅっと両手の掌を握り締めた井上は。
無意識のうちにでも、動かしていた手を止めてまで、饒舌に話しこんでしまっていた自分を、少し戒めるように目を瞑り。
自分を落ち着かせるがごとく、大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出し。

最後の言葉で、この話を無理矢理終わらせるように。
それをわざと投げやりに言って、食事を再開すべく、両手を動かしかけたが、そんな井上を見ていた尾形は、それに反して、両手を止めてテーブルの上で重ねると、さらりとその言葉を言った。


「そうかな?
少なくとも、今俺は、変わったぞ? 」
「えっ? 」
「俺は、変わった」


その尾形の優しげな声に、ついと顎を持ち上げた井上は、きょとんとした顔で、尾形を見ていて。
それから、その尾形の言葉と視線に、驚いたように目を見開いた井上の、吸い込まれそうなほどの大きな瞳に、ゆらりと揺れる水の膜が、薄っすらと張られていく様を、尾形は見ていた。

そして、そんな、先ほどまでの、頑なな鎧を纏っていたような、硬質な雰囲気の井上とは打って変わって。
脆ささえ感じさせる、酷く幼げな様子を見せる井上へ、噛んで聞かせるように言葉を選び、尾形は唇を動かした。


「井上がそうやって、怒ったり、泣いたりも、ちゃんと出来る。
そういう、…自分と同じ人間なんだってわかって、少し、安心した。
いくら自分の部下とはいえ。
独りで何もかもを飲み込んで、自分の中で、それを誰にも気づかせずに昇華してしまうような、……SPになるといえども、他人を護ることが最優先で、なにもかも自分のことは後回しな、……そんな、神様みたいな人間を相手にするのは、俺だって、さすがにしんどいからな。
井上が、ちゃんと、人間らしいところを持っていてくれて、安心した」
「…尾形さん……」


気遣わしげな視線で。
けれど、押し付けがましくない優しさを湛えた尾形の視線を一身に受けていた井上は、その言葉で、自分の頬を伝う涙を、指先で慌ててぬぐった。

そして、尾形の名を呼ぶだけで精一杯な、言葉の詰まった井上をわかっているかのように。
尾形は軽く、一つだけうなづき返して、そんな井上を見ない振りで、メインの肉を片づけ始めたその心遣いに、それでも自分を、その意識の中にいれているだろうことを悟っていた井上は、ぎこちないながらも、尾形に向かって笑って見せてから。
自分も同じように、目の前に並べられた食事を、再開した。

 

「美味いか? 」
「はい。
でも、ちょっとだけ、…しょっぱいです」


少しだけ、涙交じりの井上の声は。
けれど、それを楽しむかのように、ジョークを重ねた台詞で返され、尾形はさらりと答えた。


「だろうな」


皿に向かって俯いたことで、井上の瞳から、ぽろりと落ちた水滴が、その視界の端に見えていた尾形は、そういって、クスリと笑うだけにとどめて、皿の上の料理を片した。

 

二人の皿が、あらかた奇麗に片付けられたころあいを見計らって、デザートとコーヒーが運ばれてきた頃には、目の端だけ、わずかに赤みを残している井上は、それを素知らぬふりで、無邪気に、チョコフォンダンにフォークを差し入れ、中からとろりと零れてくる溶かされたチョコレートを、楽しそうに眺めていた。


そんな、ごくごく普通のどこにでもいる青年、…というよりかは、若干、子供っぽさを覗かせた態度で、デザートをつついている様子とは裏腹に。
ふいに、その手を止めて顔を上げた井上は、そんな自分をじっと見ていた尾形と視線を合わせると、まっすぐにその目を見返し、整った鼻筋の下で、形良く動かされる唇に、その言葉をのせた。


「尾形さん。
俺が、次に尾形さんと逢って、あなたの名前を呼ぶときは、ちゃんと、…”係長”って呼びますから。
だから、今だけ。
一つだけ、本当のことを、教えてください」
「……なんだ? 」
「尾形さんはどうして、警察官になろうと思ったんですか? 」

 

そっと囁かれた、井上のその言葉は。
数ヶ月前、西日の差し込む、警察学校の講義室で交わされたものと、全く同じものだった。

けれど、そのときと違う答えを、尾形は、口にした。
あの場で、簡単に尾形の嘘を見破った、井上に。


それが、井上の望むものであるならば、…と。

 

「どうしても…。
どうしても、忘れられない一日が、俺の中に存在しているから、…かな」


その言葉を聞き入っていた井上は、小さく息を吐きだしてから、言った。


「同じですね、俺と」
「……井上? 」
「安心してください。
もう、これ以上は、聞きませんから。
俺も、言いませんし」
「どうして…」
「決めちゃったんですよね、尾形さんも。
その先に何が待っているのか、わかってても。
それでも、そのたった一日の、消せない記憶を引き摺ってでも、…前に進むことを。
だったら、それは誰にも止められません。
ちゃんと、その全部を受け止める覚悟を、もうとっくの昔に、しているんですから」
「止めるつもりがないのに、聞いた理由は? 」
「ただ、知っておきたかっただけです。
聞いたからって、止められるわけないことは、俺が一番知ってます。
自分のことは、自分以外の誰にも、…決めることなんて、出来ません。
時に、そうじゃないように見えるのは、決断のときに、誰かのことを、想いうかべることが、あるからです。
でも、結局答えを出すのは、自分自身だけです。
だから、尾形さんのことも、誰も止めることは出来ない。
だって、最期に決めるのは、他の誰でもない、……尾形さん自身なんですから」

 

最後は、にこりと笑って見せて、そんなことを言う井上に、尾形は息をのんだ。


自分たちが歩いているところは、細いく長い絶望という名の崖の縁を、綱渡りくらいの危うさで、進んでいっているのかもしれないと、尾形は思った。

崖の向こうに側に落ちれば、そこには、すぐに死が手招きをして、待っている。

それを知っていて、なおかつ、そこを進もうとすることは、愚かな人間のすることなのかもしれない。

けれど、たとえそれが愚かな行為であろうとも。
やらなければいけないことはあると、尾形も井上も、知ってしまっているのだろう。
だから、やめない。
辞められない。


ならばせめて、井上だけでも。
そこで転ぶときには、崖の外側に向かって落ちるのではなく、多少の怪我を負ったとしても、崖の内側に向かって倒れてくれることを、尾形は密かに願った。

 

尾形の目の前では。
何事もなかったかのように、警察官の制服に身を包み、正義なんてものを、爪の先ほども信じていない、警察官である人間を前にして。
平然と、デザートのケーキに、舌鼓打っている青年が一人。

 

幸せにならなければならないと、独り生き残った少年は想い。
けれど、それと同じ位の重さで。
自分のような人間が、幸せになれることなど。
この先きっと、起こりえることはないとすら、想っている。

そのアンバランスさが、井上の脆さを引き出しているようで、尾形は耐え切れずに、瞼を伏せた。

 

けれど、かちかちと、耳障りな音を立てるのも気にせず。
チョコフォンダンを食べながら、これでもかというほどの、砂糖とクリームを入れたコーヒーを、メレンゲにでもするくらいの勢いで、ぐるぐるとかき混ぜ続ける井上に目をやった尾形は。
その、”元コーヒー”と、いわざる得ない物体に成り下がったそれと、井上を交互に見やって。
それを井上に語ったところで、本人にその自覚がない以上、その脆さを自分で庇う気など、さらさらないであろうことは、即座に見てとれて。

たとえ、それを気づかせたところで。
なら、どうすれば、自身の危うさを止められるのかなど。
そんな、本人にすらわかりえないようなことを指摘したところで、どうしようもないことも、尾形は、わかりすぎるほどにわかっていた。


いや、唯一つ。


井上の抱える、その危うさの均衡を支える術があるとすれば。
それは、SPであり続けるか、SPにならないかの、そのどちらかしか、ありえない。


ならば、井上の導き出す答えなど、聴くまでもなく、わかっていたので。
尾形はそれ以上、その話題をすることを諦めて、自身の気持を切り替えるように、深く息を吐いた。

 


「そう言えば、井上」
「はい」


この店のパティシエが見たら、自分の作ったチョコフォンダンを食べながら、飲む飲み物がそれなのかと。
泣けてくるほどの、砂糖増量ミルクコーヒーと名を変えてしまっている液体が入ったカップを、両手で包み込むようにもち、満足げに飲み干している姿に、苦笑いを浮かべながら尾形がそう声をかけると。
さっきまで自分たちが話していたことが、幻であったかのように、普段と変わらない表情で、ぴょこんと顔を上げて、井上は尾形を見返した。


「何が欲しい? 」
「はい? 」
「卒業祝いに。
何か欲しいものは、ないか? 」
「へっ? 」
「本当は、今この場に用意しておくべきものだったんだろうけど。
井上の欲しがりそうなものが、全然想像つかなくてな。
なら、本人に直接聞いたほうが、早いような気がして、用意してこなかったんだ。
だから、何がいい? 」


尾形の申し出に、予想外と顔に大書きした表情で、長いまつげがばさばさ音をたてそうなほど、目をぱちくりやった井上は、素っ頓狂な声をだしながら、大慌てで、手にしたカップをソーサーに戻すと、両手を顔の前でぶんぶんと、大仰に交差させ、返事を返した。


「そんなのいいですよ」
「なんでだ? 」
「なんでもです。
っていうか、こんな豪華な食事をさせてもらった上に、尾形さんからまだなんか貰うなんて、とんでもないっす。
もう、十分ですから」
「そうはいかない。
なんなら、この後時間があれば、このまま買いに行ってもいいし。
…そうだな、井上が遠慮して決められないなら、せっかくだから、スーツとか選びにいくか?
どうせ、必要になるものだろ? 」
「は? 
それって、冗談、…ですよね? 」
「なんで、冗談になるんだ? 」
「いや、スーツなんて、買ってもらえませんって。
大体、AOKIとか青山とかのことを言ってるんじゃないっすよね? 」
「当たり前だ。
井上は、係長ごときの給料を、馬鹿にしているな? 」
「…ありえませんから、それは」
「だったらいいじゃないか。
まさか俺だって、いきなりアルマーニのオーダーメイドを作ってやるって言ってるわけじゃないんだから」
「それこそ、当たり前です。
そんなの貰った日には、俺はVIPの弾除けじゃなくて、尾形さんの弾除けにならないと、許されませんよ」


真剣な顔をして、現実的に考えれば、とんでもないことを言い出す井上に、噴出した尾形は、その場をとりなすように言った。


「俺に弾除けは必要ない。
大体、SPは、VIPの弾除けなんかじゃない」
「…すみません、言葉が過ぎました」
「いや、…それはいい。
けど、卒業祝いなんだから、気にせず受け取ればいい。
スーツなら、いくらあっても、邪魔にはならない。
井上くらいの年だったら、J.CREWとかタケオキクチあたりが、妥当なところか? 」


そういって、井上のそれとは対照的に、ブラックのままのコーヒーを飲み干した尾形は、少しだけ首を傾けて、20代の男性が好んできそうなブランド名を、口にしていた。

いつのまにか、尾形が井上にスーツを贈る事が、既に決定事項となりつつあるその現実を前に、今度は井上が、苦笑いを浮かべる番だった。

決して、わざとではないはずなのに。
なぜだか、言葉巧みに、相手を自分の思惑に乗せることを、自然としてしまえる尾形を見ながら、井上は困ったように眉尻を下げ。
コーヒーを飲みながら、あれこれとどの店に井上を連れて行くかなどと、勝手に考え始めてしまっている尾形の意識を自分に向けさせるために、少し大きめの声を出して、尾形の名を呼んだ。


「尾形さん」
「なんだ?
他に欲しいものでも、考え付いたか? 」


言ってみろといわんばかりの顔で、自分を見てくる尾形に、井上は首をふるふると振って、答えを返した。


「尾形さんと一緒に買い物できるなんてことは、俺にとって、すごい魅力的ですけど…」
「えらい、持ち上げようだな」
「本気です。
けど、魅力的過ぎて、困ります」
「どういう意味だ? 」
「俺は、欲しいものは、特にありませんから」
「井上」


欲しいものがないと。
そこに、なんの嘘偽りもなく、すんなりそういいきる井上を、たしなめるように声をかけた尾形に。
そんな言い方をされるであろうことを、予想していた井上は、まだ話しは終わってませんといった顔をし、くちびるの両端を持ち上げて、続きの言葉を言った。


「ホントいうと俺、4係で自分が上手くやっていける自信って、…あんまりありませんでした。
不安なわけじゃないって言いましたが、多分それは、俺の強がりです」
「そうか…」
「でも今日、こうやって尾形さんと話が出来て、気づいたことが、一つあります」
「気づいたこと? 」
「俺は、独りじゃありません」
「井上…」
「大丈夫。
きっと俺は、4係の皆さんと、石田さんと、笹本さんと、山本さんと、…尾形さんの信頼する、その皆さんと、……うまくやっていけます」


そこまで言った井上は、ふと瞳を閉じて、その瞼の向こうを見通すくらいの時間を置き、すっと目を開くと、その言葉を付け足した。


「……尾形さんがちゃんと、そこにいてくれるのだとしたら」
「……いるよ、俺は」
「はい。
なら、それだけで、俺にとっては、十分卒業祝いになりえます。
けど、それでも、尾形さんが、卒業祝いに、俺に何かを下さるって言うんなら」
「言うなら? 」
「約束を、一つ下さい」
「……ん? 」
「今日って、3月9日ですよね? 」
「そうだが…」


井上の唐突な申し出に、わりと感情の起伏が殆どない、精神的に安定している尾形にしては珍しく、戸惑った声で答えたが、井上はさらりと、その先の言葉をつむぎだした。


「じゃあ、来年の3月9日も。
こうやって、尾形さんと二人で、…一緒に、食事をさせてください。
その約束だけで、俺は十分です」


来年の今日も、同じように一緒に食事をする。

それは、4月から、同じ職場で机を並べる上司と部下が、来年の3月9日という日にも、ただ一緒に食事をするというだけの、……そんな、普通に考えれば、それは、ごくごくありふれた日常に、簡単にありえそうな出来事で。
卒業祝いにと申し出た人間に対して、あえて、約束を取り付けなければならないような出来事では、ないはずだった。


けれども、そのことを、真摯な眼差しで、請うように語る井上に、尾形は一瞬言葉を失くしたが。
しかし、その約束を欲しがる井上の、痛々しいまでの想いを、まっすぐに受け取った尾形は、”たかがそんなこと”とは、決して思えずに。
けれど、わざとそこに重さを感じさせないように、返事を返した。


「そうだな。
緊急呼び出しがなければ。
来年の、3月9日に。
…そう、約束するよ」
「はい」


尾形の口から語られる、そのたった一つの、井上にとっては、切実なまでの約束に。

こくりと、首が軋むのではないかと思えるほど、強くうなづき返した井上を、安心させるように、尾形は頬を緩めると、そっと微笑んで見せた。

 


そして尾形は。
今日という、この日の約束が。


自分の命と、人としての誇り以外の、何も持たない井上が。
何かを、誰かを、護る為に。
それ以外に、何も、捨てられるものを持っていないがゆえに。
そのどちらかを捨てなければならなくなった時。


それを天秤にかけるまでもなく。
一番最初に、自分の命を手放すであろう彼を、SPにした自分が、願っていいことではないとわかっていながら。


それでもなお。
そのたった一つの約束が。
来年の、3月9日という日の存在が。


いつか、そんな井上を護ることになり得ることを。

……心静かに、そんな、切なる祈りを。
二人が座るテーブルの、窓の向こうに見えている、桜の蕾がほころびはじめた世界を照らす。
凛と澄んだ青い空に向かって、馳せていた。




END



おおお、3月9日に、ギリギリ間に合った~!!

ホント、ギリギリなんですけど、ええ、もう22時回ってますから~(てへ)

というわけで、井上くんの卒業式記念。
ってか、単に、成瀬が、レミオロメンの「3月9日」が、すごい好き!って言うだけの気が、しないでもないんですが、この時期は、絶対コレを聞くんで、コレ聞いてたら、ふとこの話を思いついてしまったわけです、ハイ。

だからといって、別に卒業ソングじゃなくて、ホントは、結婚式ソングなんですけどね(大笑)

でまあ、またそのうちブログででも詳しくかくと思いますが、このPVがすごいすきなんですよね。
ブレイク前の、堀北真希ちゃんが出てて、多分、おねえちゃんを持つ妹さんなら、このPV、ものすごくぐっと来るものがあると思う。

しかも、お姉ちゃんが先に結婚式を挙げてて、自分がそのシーンをカメラに納める立場だった場合、そのときのことがシンクロして、大変なことになる。
やっぱ、女姉妹って、サイコー☆って。

話が脱線しましたが、とりあえず、時間がないので、このままアップしますが、いつものごとく、校正がすんでません。
ごめんなさい。

近いうちに直しにきますが、なんだか日本語がへんなところがあったとしても、お目こぼし下さい、ハイ。

最後に、コレ書きながら、久しぶりにフレンチのコースを食べに行きたかったのは、私です、ハイ。




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SP革命前夜の公安は、ある意味頑張ってた。。。 [ドラマ「SP」パロディ小説関連]

SP革命前夜を、またも見直して、涙をこらえてるアホの子成瀬です。
そして、見直してすっごい思ったんですけど、今回公安、ある意味めっちゃちゃんと仕事してた?
っていうか、田中君頑張った。
いや、頑張りすぎて、いつもの単独行動が裏目に出ちゃったんですけど。
でも、田中君スキーのワタクシは、田中君の頑張り(?)に敬意を表して(意味不明)PASS付ページにすでに掲載させて頂いた作ですが、こちらでもUPしてみました。
なぜかというと、どうしても、PASS請求が出来ないんだ~!!って嘆く方々がいらっしゃるからないんですが。
っていうか、そのお嘆きのメールを下さるなら、それでPASS請求ってみなして、お返事にPASSを送りつけてるのは、成瀬ですけどね(てへ)
話がそれましたが。
とりあえず、田中君スキーの成瀬の想いが溢れすぎて、ちょっとばかしこぼれたんじゃね?位の勢いの作品ですが、多分根底に流れる二人の位置関係と大幅には外していないはず。。。なんで、大目に見てください。

☆この記事を読まれる前に、まずはサイドバーにありますパロディ小説を読まれるにあたっての注意書きを必ずお読みいただいてから、それをご了承いただいた上で、お読みいただけますようお願いいたします。

下記小説は、ドラマ好きな、SPの一ファンである成瀬美穂の、作品をするが故の、空想の産物です。
よって、実在する作品、人物等に、一切関係はございません。
上記に関し、警告がきた場合には、即刻当該ページを削除する用意がありますので、実在する作品を害する意図は、一切ないことを、併せて明記させていただきます。

========注意書きをお読みいただけましたか?
ありがとうございます。
では、どうぞ。。。

スタート。


 
  天若有情



「休みの日は家で、趣味の読書をしているんじゃなかったのか? 」

 


普段から、他人に対して。
めったと、その感情を露にしないはずの田中にしては珍しく。

言葉自体は、冷静でありながらも、誰の目から見ても明らかな、怒気を含んだ低い声で、そう言葉すくなに責められた井上は。

本来ならば、
『そんなことは、放っておいてもらおうか』
と、抗議の声の一つも上げたいところだったが。


けれど、田中がそんなことを言ったのは。
紛れもなく、自分の軽率な行動に起因していることに気づいている井上は。
ばつの悪そうな顔をして、返すべき言葉を逡巡しながら。

未だ田中に掴まれている、三角巾で覆われた腕と、反対の腕の自分の肘をじっと見つめて。
そこを、なぜだか必死になって掴み。
井上ほどではないにしろ。
それでも、警察官だといったところで、あまり回りに信じてもらえそうにはない、細身の体躯でありながら、自分の片手だけで、井上の体重の三分の一ほどは、ゆうに支えているであろう、指先が白くなるほど力の込められた田中の右手を。
井上は、やんわりと、包帯に包まれた左手の指先を添えて、そっと外させた。

 

そもそも。
なぜそんな状況になっているのかというと。

つい、数分前に、大通りに面した歩道橋の上で、そこから見下ろせる一帯に神経を張り巡らせて、大量に流れ込んでくる状況と、人の感情と、洪水を起こしたような勢いで押し寄せる。
五感が、極端に鋭敏になっている井上にとっては、ある意味、凶器ともなりかねない無数の音の波に攫われないよう、自分の状態をコントロールする為に。
その場で、かなり無理を推してまで、長時間立っていたのが悪かったのか。

井上の予想以上に、自分の神経を蝕むようなそれらに晒されたせいで。
自身の体調の悪化に気づき、危険を回避する為に、そこから踵を返し。
足元で、交差点を行き交う人の群れの多さから、逃れるように。
急速に襲い来る、頭の芯を刺すような音と感情を避けるため。
なんとか、その場を離れようとしたときには、時既に遅く。

鳴り止まない耳鳴りと。
足元から崩れていくようなめまいと。
思考判断力を、容赦なくそぎ落していく頭痛に襲われ。

その場を後にするため、ふらふらと、歩き出した先の階段から。
あわや、まっさかさまに転落、……などという、現役SPにしては、大変不名誉、…なんてことを言っている場合ではないくらい。

かなりの段数が続く、傾斜のきつい階段の上から下まで。
ストレートに落ちていれば、かなりの大怪我。
下手をすれば、首の骨を折って、即死。
……であっても、おかしくはないその場所で。

いくら、そんじょそこらの一般人とは、鍛え方の違うSPである井上であったとしても。

自分の身体も満足に支えられなかったがゆえに、歩道橋の上から転落死、…になりかねないその自身の現状で。
咄嗟に、ろくな受身が取れる、確実な自信もなければ。
病院通いを義務付けられるほどの、負傷中の身である、包帯でぐるぐる巻きにされ、固定された左腕では、自分のすぐ傍の手すりを、にわかに掴むことすら出来ず。

そんな無防備な状態で。
歩道橋の階段の上から、その真下に向かって。
空中に投げ出された身体が、引力に逆らうかのごとく、ふわりと、一瞬だけ嫌な浮遊感に包まれて。
次の瞬間には、伸ばした手が、空を切って、…むなしくも、階段から転落、…と、なるところだったのだが。


一向に、井上を襲う、コンクートの階段を転がって落ちていく痛みは訪れず。

代わりに、がくんと。
妙な力強さで、誰かに右腕を掴まれた井上は。
階段の上で、1,2段だけを踏み外した状態で停止しており。
階段の段差で、弁慶の泣き所辺りをしたたか打ち付けた程度で、右腕を上から引かれているお陰で。

階段から落っこちもせず、しゃがみこむようにその場で膝をついた姿勢で、井上の右腕を引く人間を見上げたが。
その半秒後に、井上は、ぐいっとそのまま、立ち上がらせられて。
その相手の顔を確認も出来ぬまま。
ただ、そのよく見知った背中を、不思議な思いで見つめたまま。

一言も発しようとはしないその人物に、ずるずると、掴まれた腕ごと引っ張られるようにして、人気の少ない、いりくんだ歩道橋の端までつれてこられて。
行き止まりのような、その歩道橋の端で立ち止まると。
掴まれていた腕の力を、少しだけその人物が緩めたことで。
足の力が、しっかりとは入っていなかった井上は。
そのまま、ずるずるそこへ、へたり込んでしまい。

繋がれたままの右腕の存在があったので、その場でひっくり返ることもなく、座り込んでいるだけで済んでいることも事実だったので。
すぐにはその腕を振り払うことも出来ず。
ようやく、黙ったまま、じっと自分を見下ろしてくる、井上の腕を掴んだままの人物を見上げて、口を開いた。

『…田中』

と。

井上が、そう呟くと。
無表情こそが、彼の表情だといわんばかりの、常の態度とは裏腹に。
見るからに、不機嫌そうな顔を浮かべて見せた田中は。
自分に右腕をつかまれたまま、力なくその場にしゃがみこんでいる井上を見下ろして、大きなため息を一つ落としてから。
冒頭の台詞を、口にしたのである。


従って。
いつもならば、田中に対しては、なんの気負いもなく、当然のように悪態をついていた井上だったのだが。
今日ばかりは、すぐさまそんなことが出来そうもなく。
どうしたものかと、困ったように眉根を寄せてから。
諦めたように、一つだけ、小さく息を吐き出して。

普段よりかは、トーンを落とした反論を、するりとその唇に乗せて見せた。

 

「…だから。
お前は、俺の、ストーカーか? 」

 

井上の指先によって、緩く外された、彼を支えていたはずの自分の右手に、ちらりと視線をやった田中は、支えを失った右手を、歩道橋のさびた手すりに移して、そちらに若干体を傾けながらも、斜め下から自分を見上げてくる彼の視線とかち合ったそれを外さないように縫いとめて、彼の形のいい唇が、緩慢な動きで、皮肉な響きを滲ませた言葉をつづる様を、見ていた。

 

「これも、僕の仕事だ」


外された右手を、手持ち無沙汰に歩道橋の欄干へ移動させた田中は、しゃがんだ状態であっても、糸の切れた人形が、ぐにゃりとその身体を折って、前のめりの姿勢で重力に従うように落下していく、数分前の井上よりかは、幾分落ち着きを取り戻した様子を見せている、その顔色と声に。
ようやく、普段の無表情さを取り戻して、呆れを滲ませた、ため息交じりの声で、さらっと答えを返した。


「あっそ…。
お勤め、ご苦労様です」


見るからに、眉間に皺を寄せた顔で田中を見上げていた井上は。
その田中の台詞に、わざとらしくぺこりと頭を下げて見せ。
それから、ゆっくりと、歩道橋の手すりを支えに立ち上がると。
その一本の手すりだけを頼りに、ふらつく上体を支え、一つだけ緩くかぶりを振って。
断続的に続いているであろう、その痛みを追い払うように、ぎゅっと目を閉じてから、くるりと田中に背を向けると。

それ以上、なんの言葉もなしに、その場から離れようと、重い足取りで、駅に向かう方向だからか。
殆ど人の通らない自分たちのいる場所から、まるで作られた法則に従うように、奇麗な動きで人の流れがある方へ、井上は向かいかけた。

その腕を、再度、背後から田中は掴み、井上のその動きを止めさせると。
強引に自分の方を向かせるべく、ぐいっと、その腕を引いた。

階段から転落しそうになったほどの、今の今で。
その田中の力に、逆らえそうもない井上は。
不承不承といった感じで、引き寄せられた田中の腕に従うように、彼のほうを向き、橋の欄干に身体を寄せてもたれかかり。

けれど、最期の抵抗とばかりに、じろりと、傾いた体を橋にもたせかけたままの姿勢で、斜め下から田中をにらみつけた。


そんな井上からの抗議の視線など、全く意に介さない雰囲気の田中は。
掴んだ腕を放さないまま、端的に、諭すようなその言葉を口にした。


「病院に、行けよ」


言われた田中の台詞に、肩を落とすフリをして、大きく息を吐いた井上は、うそぶくように、返事を返した。


「もう、行ったっつーの。
ってか、午前中に行って、包帯取り替えてきたことくらい、田中だって知ってんだろ?
俺なんかのストーカーを、わざわざ国費使ってまで、やってんだから」
「人聞きの悪いことを言うな。
それに、僕が言っているのは、そっちの病院じゃない」
「……午前中も、俺にくっついてたってとこは、否定しないのかよ」
「しない。
井上相手に、僕が嘘を言っても、仕方ないだろ」


確かに。
井上の言うとおり、今日は非番だった彼は、午前中の内に、病院を訪れて、腕の傷の消毒を済ませて、包帯を取り替えてもらっていたし。
田中の言うとおり、そんな井上を、公安の人間として、田中が朝から尾行していたことは事実だった。

が、しかし。
方や、尾行された人間。
方や、尾行していた人間であるにもかかわらず。
お互いのそれを、全く否定せずに語ってしまえる間柄の人間というのも、そうはいないことも、事実だったので。

田中からあっさりと、肯定の言葉を言われた井上は、諦めたように苦笑してから。
もう、逃げる気はなくなったのか。
身体を少しだけずらし、背中を寄りかかっていた橋の欄干に預けるように凭れさせると。
いま自分たちが抱える想いとは、明らかに裏腹な。
間近に迫った春の訪れを告げる、からりと晴れ上がった空を見上げて、そこを見ながら目を細め。
わざととしか言いようのない、無駄口を上げ連ねるのはやめて、本心をストレートに語りだした。


「病院ねぇ…。
なんかさ、行っても全然意味ないし。
逆にこれ以上あそこ行ったら、俺、頭ん中、強制的にいじくられそうで。
さすがに、それはちょっと、…勘弁してって感じ? 」


昨日、このままの状態が進行すれば、外科的処置もやむなしと告げられた。
妙に淡々とした、主治医の女医の言葉を脳裏に思い描きながら、ぼそりと呟く井上の横顔を見ていた田中は。
井上にばれない程度に、痛ましげな表情を一瞬だけ浮かべて消し去ると。
意図的に、感情を排除した、事務的とも取れる口調で、事実を確認するように、井上に話しかけた。


「薬、…効いてないのか? 」


田中の問いかけに、欄干に凭れたまま、くるりと首から上だけをそちらに向けた井上は、眉根を寄せて、返事を返した。


「それも、知ってんのかよ。
まさか、警察病院だからってだけで、患者のプライバシーが、法的に護られてるはずのカルテの中身まで、お前ら公安の権限でみてるとか、言わないよな? 」
「それくらいしそうなところだってことくらい、井上だって知っているだろ」


恐らくそれは、田中の嘘だった。

井上が東京警察病院の、神経科から薬を処方されていることは、公安が病院からカルテを入手したから、田中にそれをわかられているわけではなく。
ただ単に、今より以前に、井上を尾行したことのある田中が、その目でその事実を確認していたに過ぎないことは、井上だって、わかっていることだった。

けれど、それくらいのことをしてもおかしくない組織であることは、間違いがなかったので、田中はその皮肉も込めてか、そんな言い方をして返事を返した。

井上も、それがわかっているから、あえてそこを流して、話を続けた。


「ホント、ストーカー以上だな」
「はぐらかすなよ」
「……なにが? 」
「処方されている薬は、飲んでいないのか? 」
「飲んでも効かない」
「……全く? 」


井上の端的な答えに。
ぴくりと眉を動かしてから、そう尋ねる田中の顔が、心配に曇ったことに。
わずかなその表情の変化で読み取った井上は、少しだけ唇の端を持ち上げてから俯き加減にして笑うと、右手の指先でとんとんと、自分のこめかみをつつくようにして見せてから。
わざと軽い話題のような口ぶりで、田中に答えた。


「コレを止めるには、SPを辞めるしか、なさそうだけど? 」
「でも、辞める気は、…ないんだろ? 」
「ないよなぁ」


もの凄くあっさりと返された、その井上の言葉に。
わかっていたことながら、足元に視線を落とし、疲れたように首を左右に振った田中は。
次にすいっと顔を持ち上げて、井上をまっすぐに見た。


「じゃあ、休みの日ぐらい、大人しく家で、趣味の読書でもしてろよ。
それでなくても、怪我のせいで、デスクワークが殆どとはいえ。
警視庁の中でも、外でも、…井上が公安にマークされている状況は変わらないし。
サポートで入る、警護のある日は、身体が自由に動けない分、いつも以上に神経張り巡らして、磨り減ってくばかりのくせして。
数少ない貴重な休みの日に、こんな人ごみをウロウロしてたんじゃ、酷くなるばかりだろ? 」


田中の指摘は最もなことだったから、井上はそれを否定はしなかった。

今日この場で、井上を尾行していたということは、それ以前も。
そう、普段の井上の行動も、田中は、とっくの昔に、知りえているのだろう。

だからこそのその台詞に。
けれど、その井上の神経をすり減らしているであろう、公安の行為の一端を担っているはずの田中に、本来ならば、お前にだけは言われたくない、……との言葉が、その口から飛び出してもよさそうなものだったが。
今の井上に、それを田中にぶつける気持は、皆無だったので、その部分は追求せずに、自分のとっていた行動の理由を、話して聞かせるに、とどめた。


「なるべく、キツイ状態に慣らしとかないと。
いざって時にぶっ倒れてたら、あそこにいられなくなるから、…とりあえず、その訓練? 」


若者の口調を真似るように、語尾を持ち上げた疑問系で答え。
首を傾けながら、上目使いにそういう井上は。
多少、悪戯をたくらむ子供のような視線をして見せていたが、そんな井上の策略など、歯牙にもかけない田中は、事態を軽く受け流そうとする井上を許さずに、話を進めた。


「それこそ、本末転倒だ。
訓練中に、死んでどうするんだよ」


話を逸らそうとする井上に、容赦なく正論を吐く田中の台詞は、井上の逃げ道を塞ぐに十分な力を持っていて、ぼそぼそと、自信なさげな声で、田中に答えるしかなくなっている井上は、心なしか、田中におされ気味な様相で、いい訳じみた台詞をその唇に乗せるしかなかった。


「受身取ったら、さすがに、死にはしなかったと思うけど?
まあ、この腕だし?
どう考えても、無傷って訳には、いかなかっただろうけどさ」
「当たり前だ。
あの状態であそこから落ちて。
それでも、無事でいられるって思うほうが、どうかしてる。
特撮ヒーローだって、死ぬときは、死ぬんだ。
……ものすごく簡単に」


その声だけを聴いていれば、そこに感情の起伏を見つけるのは、到底出来そうもない、単調なものだったにも関わらず。
静かに語られる田中のそれは、思いのほか強い力を持ち。
最後は。
とてつもなく、重い言葉を落とされてしまったことに気づいている井上は。
仕方なく、ゆっくりと息を吐き出し、無駄なこととわかっていながら、最後の言い訳をした。


「死なない為に、やるしかないから、やってただけだけど? 」
「……なら、せめて。
せめて、どうしてもやるっていうのなら。
一人でやるのは、辞めてくれ」
「…なんで、そんなこと……」
「井上が死んでも、この世界は、何一つ変わりはしない。
今この瞬間に、首の骨の折れた人間の身体が、この歩道橋の階段下に転がったとしても、それをみた人の目には、…それが、自分の目の前の死であっても、所詮他人事にしか映らない。
この世界の人間の殆どが、見知らぬ人間の死に、無関心だからだ。
……だから、井上が死んでも、世界は何も変わらない」
「田中…」
「でも。
僕は、変わる。
井上が死んだら、少なくとも、僕は変わる」


一人でやるのが駄目ならば。
ならば、一体誰に、どういって、先ほど、井上がやろうとしていたことを、理解してもらえばいいのかと聞かれれば。
田中にとて、その回答を用意するのは、困難なことだった。

けれど、それをわかっていながら。
それでも、一人でこんなことをしないで欲しいと言い募る。
井上の死で、世界は何一つ変わらなくても、自分は確実に変わると断言する。
そんな田中の気持を、正しく読み取った井上は、凭れていたそこから上体を起こして田中と向き合うと、素直に頭を下げて、謝罪の言葉を口にした。


「悪かった」

 

歩道橋の下では、スクランブル交差点を、時折クラクションを鳴らしながら、多くの車が通り過ぎていて、歩道橋の上を歩く人々も、夕刻に近づいているからか、会社への帰路を急ぐサラリーマンや、学校の授業を終えた学生達の姿が増えて。
井上がここへついたときよりも、一際、そこに溢れかえる音も思いも、数を増してはいたが。

それでも、ぽつりと零された井上の謝罪の言葉に、きゅっと唇を噛み締めてそれを聞いていた田中と自分との間には、なんの音も思いも、入り込んでくる余地がないかのように。
しんとした沈黙が、そこに横たわっていた。

それは決して、井上を不快にはしない、沈黙だった。


その落とされた沈黙を先に破ったのは、井上の方だった。

返す言葉が見つからないのか。
もしくは、最初から謝罪が欲しかったわけでもなく、答えを返すつもりなどさらさらなかったのか。

どちらにしろ、何も言葉を発しようとはしない田中をまっすぐに見ていた井上は、小さく唇を動かして、田中に話しかけた。


「なあ、田中」
「……なんだよ」
「お前は、神サマって、…居ると思う? 」


唐突な井上の話しに、驚いたように眉を持ち上げて見せた田中は。
けれど、すぐに元の表情に戻して、橋の欄干に乗せていた右手の指先で、眼鏡のフレームを押し上げると、めんどくさそうに、答えを返した。


「また、神様の話しか?
前にも言っただろ?
そんな、いるのかいないのかもわからないような存在に、僕は全く興味はない。
大体、この世界の現実を前に、そんなものがいると思う人間の方が、馬鹿としか言いようがないし。
仮にいたとして。
だったらそれが、なんなんだ?
いたら、なんかしてくれるのか? 
してくれたのか?
そんなわけない事位、僕なんかに聞かなくても、井上自身が一番に、わかっていることなんじゃないのか? 」
「相変わらず、田中は辛辣だよな。
だから日本人は、信仰心の欠片もない人間だって。
人としての根本の薄い人間だって、諸外国の人間に呆れられるんだろうなぁ」


田中の答えに、のんびりと、そんな言葉を返す井上の声を聴き。
笹本張りの、盛大な舌打ちをかましそうになる自分を、どうにか理性で押さえつけた田中は、吐き捨てるように、その言葉を口にした。


「言っとくけど、呆れるのは、こっちも同じだ。
僕は無心論者で、”神様”なんて名前の、都合が良くて、身勝手な存在を、…一つも信じてなんかいない。
そんなものに縋らなければ生きていけないような人間の方こそ、人としての根本の薄い人間だと、僕は思うね」
「なるほどねぇ。
さすが、田中君。
自分ってモノを、ホント、お前は見失わないよな」
「……井上に言われても、嬉しくない」
「感じ悪ぅ」


足元のコンクリートを蹴飛ばすようにして、すねた口調で返す井上を見下ろす田中は、そんな井上の行為をスルーして、話の続きをした。


「で、井上はどうなんだよ」
「何が? 」
「人に、神様はいると思うかって聞いておいて、何が? は、ないだろ? 」


田中の呆れ返った声に、そうでした、…といった顔をした井上は、飄々と返事を返した。


「いや、俺は、…いるような気もするし、いないような気もするし」
「どっちなんだよ」
「いたとしても、たぶんそれは、世間一般で言う、最後の神頼み的な、…いつか自分を救ってくれる存在としての神サマじゃなくて。
生と死を司るって言うか、…人の力では動かせない、運命的なものを握っているって言うか、…そういう感じの神サマなら、……いるのかも? って、少しだけ思う」


俯き加減にぽそぽそとしゃべる井上の声を聞いていた田中は、知らず、長く深い息を吐いて、話しの先を進めた。


「井上が、運命信奉者だとは、知らなかったよ」
「そういうんじゃなくて。
なんていえばいいのかな…。
多分、神サマってやつは、いるんだよ。
いるんだけど、その存在が、人間と交差することは、決してないっていうか、…そういう、存在なんだと思う」
「だったら、人間と交差することのない存在のはずの神様が、本当にいようがいまいが、どっちでもいいんじゃないのか? 」


話しの終着点の見えない井上の言葉に、田中は結論付けるようにそういうと、言われた井上は、橋の欄干に右腕を乗せて、その腕の上に自分の顎を乗せると。
歩道橋の向こうに見えている、都心のビル群を眺めながら、ふわふわとした声で、答えを返した。


「人間と神サマは、その存在が交差することはないから、人間が神サマになれることも、神サマが人間になれることも、一生ないとは思うんだけどさ」
「……ないだろうな」
「でも、神サマと同じものを、人間は一つだけ持ってるって、俺は思うんだ」
「神様と? 」
「ああ。
神サマが持ってて、俺ら人間も、持ってるもの」
「…なんだよ、それ」


右ひじを橋の欄干に乗せて、そこに小さな顔をちょこんと乗せている井上の横顔を見ていた田中は、そう聞きながら、井上の投げている視線の先に同じように目をやって、そこに浮かぶ、ビルの窓にキラキラと乱反射する光を、忌まわしそうに、目を細めてみていた。


「二つの顔? 」
「………は? 」


井上の言葉に、首を傾げて聞き返した田中の反応をわかっていたかのように。

クスリと、小さな笑い声を漏らして振り返った井上は。
自分が顎を乗せていた右手を、魔術師がするように、すっと音もなく持ち上げると。
指先をぴんと奇麗に伸ばして、それを顔の前に持っていってから、その言葉を口にした。


「神サマってやつはさ、二つの顔を持ってるだろ?
……創造と破壊の顔」


そういって、そんな井上をじっと見つめている田中の視線に気づいているのか。
そのまま顔の前で動きを止めた手の平を、指先をまっすぐ上向きに伸ばしたまま、少しだけ内に向けた親指の付け根と、伸ばした人差し指が、形の良い鼻梁を描く鼻先につく位の場所で止めて、顔の右と左を、右手の掌で半分に分けるようにしてみせた。

左右のどちらかの顔が、創造を司り、破壊を司る。
井上は、それをうかがわせる顔つきで、俯き加減に、自分の顔を二つに分けて、田中に見せていた。


「……人間も、それとおんなじ」
「創造と破壊、……井上の顔にも、その両方があるって言いたいのか? 」
「物事を変えるには、二つの方法がある。
全てを創造する。
もしくは。
全てを破壊する。
どっちが簡単かは、一目瞭然。
だから、何かの変化を求めるときに、全てが破壊されることの方が、格段に多いのは、そういう意味なんだと思う」


そういって、すとんと顔の前で止めていた手を落とした井上は、自分を見ている田中に視線を上げて、苦笑いを浮かべていた。

そんな井上を見下ろしていた田中は、不意に何かを思いついたような顔をして、指先を自分の唇にあてがうと、すとんと、その言葉を返していた。


「けど井上は、創造と破壊を繰り返す神様も、安易に破壊することで何かを変えようとする人間をも向こうに回して。
破壊とは違う方に、……力を入れることにした、ってことか」
「かもしれない。
でも俺だって、ずっとそっちでいられるのかは、わかんないけどな」


微苦笑を浮かべたままそう言った井上に、ため息を落としてからこめかみをかいた田中は、やけ気味に、続きの言葉を言った。


「そっちでいてくれ。
でなきゃ、やっかいなことになるのが、目に見えてる」
「それって、ほめてる? 」


なにごとかを企んでそうな顔を浮かべて見せた井上に、嫌そうな顔をして見せた田中は、投げやりに返事して、明後日の方を向いた。


「そう聴こえるんなら、耳鼻科に行った方が、よさそうだな」
「そうか? 」
「ああ。
その前に、眼科か? 」


あざとい声でそう言った田中に、訝しげな声で井上は返した。


「なんだ、それ? 」


井上からの問いかけに、言われた田中は、視線を向こうへやったまま、井上の方を見ようともせず、唇をやけに明瞭に動かして、その言葉を言った。

 

「昨日、見えたんだろ? 」
「…何が? 」
「井上流に言えば。
尾形さんの、…もう一つの顔」

 

そこで言葉を切った田中は、ふっと顔を井上の方へ向けて、なんとも言えない目をして、井上を見ていた。


昨日。
田中の言う昨日に、井上が目にしたものは。

それは、尾形の持つ、もう一つの顔だったのかもしれないし。
そうじゃなかったのかもしれない。


昨日、警視庁のエレベーターホールで。
新しい理事官として着任した人物と、声も密かに、何事かを耳打ちしていた尾形の声が、5感の感覚が増した今の井上の耳に、聴こえなかったといえば、嘘になる。
けれど、井上は、あえて、その声に耳を塞いでいた。

だから、実際には、聴こえなかったのではなく。
答えは、聴かなかった、……が、この場合は、正しいのだが。

どちらにしろ、尾形の発したそれは、井上が、聴きたくないと、無意識にでも思ってしまうほどのものでもあり、実際、井上の耳に届かなかった以上、案外、どうでもいいことだったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれないが。
結局のところ、あの場で、尾形と理事官の間で、何の言葉が交わされていたのかは、今更、知る由もなかった。


けれどそれは。
確実に、狂気に満ちた雰囲気を、醸し出していて。


その空気に、知らず井上は、尾形をじっと見つめていたことに。
尾形自身も、間違いなく、気がついていた。


ただ、そのあと、4係のメンバーと、当初の予定通り、尾形のポケットマネーに奢られた井上は。
そのことを、一言たりとも、尾形に聴くことは出来ず。
尾形もまた、井上が気づいていることに、気がついているはずなのに。
なにも、言おうとはしなかった。

言い訳の一つもしてくれれば。
井上は、それが嘘だとわかっていても、それを鵜呑みにしてもいいとすら思っていたにもかかわらず。
結局最後まで、尾形は井上に、その胸のうちを明かすことはなかった。


そのことに、多少混乱した井上だったが。
けれど今は、それこそが、尾形の答えだと思っていたので、田中の問いかけに、ごく自然な口調で、返事を返していた。

 

「創造の、…じゃなくて? 」
「創造の、じゃなくて。
破壊の方」
「見えた。
…とも言うし、見えなかったとも言う、…かな? 」


井上の答えに、苛立ちを隠せない息を吐いた田中は、ごくごく普通のサラリーマンを装う為か。
左手に持った、黒のビジネスバックを持つ指先に力を込めて、無理矢理、何かをやり過ごすような表情を浮かべていた。

そんな田中をちらりと見やった井上は。
ことさら、軽口を叩くように、話の先を急いだ。


「っつーかさ、田中。
お前、昨日も、俺のストーカーやってたわけ? 」


芝居じみた半笑いの声で、そういう井上を一瞥した田中は。
眉間に指先を当てて、二、三度そこを揉むように動かしてから、眼鏡越しにじっと井上を見つめて、静かに尋ねた。


「辞めないのか」


深刻さを隠そうともしない田中の声に。
観念したのか、浮かべていた薄ら笑いを素早く引っ込めた井上は。
田中の視線をまっすぐに見つめ返して、口を開いた。


「なにを? 」
「それでも、井上は、SPを辞めないのか? 」
「辞めない。
っていうか、それで辞める意味、全然わかんないし」
「そんなわけないだろっ! 
井上をSPにしたのは、あの人だ」


あまり荷物が入っているとは思えないほど薄っぺらな、カモフラージュのために左手に持ったビジネスバックを、投げつけなかったことが不思議だと思えるほど、声を荒げた田中に。
そんな、天と地がひっくり返りそうなことを、平気で田中にさせているのは自分自身だとの自覚があるのか。
少しだけ、申し訳なさそうな顔をして。
けれど、冷静さを保ったままの声で、田中のそれに、言葉を返した。


「でも、SPになることを望んだのは、俺自身だったってことを、忘れてないか? 」


それは、田中を黙らせるのに、十分な威力を持つ、言葉だった。

井上に、そういいきられてしまっては、もう、田中にいえることなど、何一つ残ってはいなかった。
だけど、何をか言わずには居れない。

そういう目で、じっと井上を見ている田中と視線を合わせていた井上は、困ったように息をつき、言葉の先をつむいだ。


「なあ、田中。
お前は俺に、一体何を言わせたいんだ?
どんな答えを返せば、お前は納得するんだよ」


尋ねるというよりかは、懇願するような井上のそれに、言われた田中は、突き放すような答えを返した。


「納得なんて、できないよ」
「だったら…」
「納得なんて出来ないけど、諦めることも出来ない」


そう。
井上の言うとおり。
納得できないのならば。
だったら、もう、放っておけばいいだけのことなのに。

なのに、田中は、そうしない。

そうしない理由を、ぽつりと田中は口にした。


「人間ってのは、複雑怪奇な生き物だってことだよ。
僕も、井上も、…それから、尾形さんも」


そういって、鞄のもち手を握る指先に、一層力が入ったことをみやった井上は。
田中の左手にあるビジネスバックを、
「爪が食い込むぞ」
とだけいってから、すいっとそれを取り上げて。

空っぽに近いその鞄の中を覗きこみ。
重さを増してしまった空気を軽くするかのように、口を開いた。


「お前これ、中、からっぽなんじゃねぇの?
いくらカムフラージュ用でも、なんかいれとけよ」
「入ってる」
「は? 」
「ちゃんと、はいってるよ。
空じゃない」
「嘘、マヂで? 」


そう言った井上は、人の鞄であるにもかかわらず。
そんなこと、どこ吹く風といった様子で、さっさと鞄のファスナーを開いて、中を覗きこみ。
そこに入っていた、たった一冊の文庫本を取り出し、その表題を見てから、クスクスと笑い声をかみ殺した。

左手を三角巾で吊ったままの井上が、持ちにくそうに広げたかばんの中から取り出したその文庫本は。
「論語」の文庫版だった。


「田中も、趣味は読書、…の口なのか? 」
「悪いか? 」
「いや…。
でも、岩波文庫とは、…田中って、見た目どおり、堅いな」
「見た目と中身の180度違う井上から見たら、誰だって見た目どおりだろ? 」
「そっかぁ?
あ、そうだ。
どうせ漢詩よむなら、李賀とか、俺はオススメ」
「もう読んだ」
「…さすが、読書が趣味の、田中君」


そういいながらも、まだ笑いを納め切れていない井上を、いつものことと思っているのか、全く相手にしていない田中は。
出したとき同様、大概苦労しながら、あけた鞄に本を戻して、ファスナーを閉じるのに四苦八苦している井上を見下ろして、囁くように、その言葉を口にした。


「40にして惑わず、…か」


今しがた、井上が手にしていた、田中の荷物の中にあった「論語」の一説に出てくるそれを、小さな声で口にした田中に、視線を上げた井上は、それが誰のことを指しているかなど。
改めて聞くまでもなくわかりきっていることに、苦い顔をして、田中が言葉を続けるのを、黙って聞いていた。


「惑いなく、あの人が向かおうとしているところは。
……一体、どこなんだろうな? 」
「さあな…。
それがわかれば、お前がこんなとこにいる必要は、ないんじゃね? 」
「…確かに」


下の道路を行き交う交通量のせいか。
煤汚れた感じのする、ねずみ色をした、歩道橋のアスファルトを、靴先でトントンと叩きながら、そこに視線を落としていた井上は。
深く重い息を吐いた田中を、ちらりと見上げて、その言葉を差し向けた。


「でも…。
田中は、本当に、係長が迷ってないと思うか? 」
「……え? 」
「俺は、……係長は、そんなに強い人じゃないと、思う」
「井上? 」
「もしかしたら。
強いと思わなければ、居た堪れないほど、…本当は、弱い人なのかもしれないって。
俺は、思う」
「井上……」
「大体さ、係長が、本当に、何一つ迷いなく、今の道を選んでいるのだとしたら。
だとしたら、そもそも、警察官になったこと自体、おかしいとは思わないか?
係長が、自分の保身の為か、身勝手な想いのためか。
それがなんのためであろうとも、現状を変えることを目的として、そのために、正攻法で攻めることをかなぐり捨てて、何かを為そうとしているのならば。
なら、…あの人は、警察官なんかにならなくても、なんにでもなれたはずなのに、それなのに、あの人は警察官になった。
警察組織を、自分の手で変えたいと思うのなら、それこそ、官僚にでもなんでも、なればいい。
もしも、それ以上に、完全な悪を目指しているのなら。
係長の持つカリスマ性を利用するなら、上から強引にでも物ごとを動かそうとする政治家にだって、なれたはずだし。
東大法学部を出てる尾形さんなら、その気にさえなれば、裁判官にでもなって、合法的に人の命を奪うこともできるし、検察官になって、犯罪者って呼ばれる人間を、片っ端から起訴していけばいい。
たとえそれが無理でも、やろうと思えば、弱者を踏みつけに出来る、悪徳弁護士にだって、なれたはずだろ?
でも、係長は、そのどれにもならなかった。
ならない代わりに、警察官になった。
しかも、警察官僚ではなく、現場にいることに、何よりもこだわった。
そこに意味があるんだと、……俺は思ってる」


そこまで一気に話した井上は、小さく息をついて、唇を噛み締めた。
そんな井上の口元だけを見ていた田中は、そこから視線を逸らして、その疑問の声を投げた。


「だから井上は、尾形さんを信じているのか? 」
「盲目的に、”係長を信じてる”って、いうつもりじゃない。
それは、相手への負担にしかならないから。
ただ、俺が、信じたいんだよ、…誰よりも、係長を」
「あの人は、井上が自分を信じてるってことを、……信じたくないだろうけどな」
「それでもいい。
田中や、公安の人間。
そしていつか、係長を信じられなくなる人間が、増えたときに。
いつか誰もが、係長のしようとしていることを、疑ったときにこそ。
俺は、係長を、信じたい。
例えそれが、間違いであったとしても。
誰もが係長を疑うというのなら、俺はその逆を行く。
……そういう人間が、一人くらいいたって、…別に、かまわないだろ? 」


最後は、唇の端を持ち上げて。
気丈にも、笑って見せた井上に。
田中は、目を閉じて、天を仰いだ。

この想いの欠片だけでも。
それだけでもいいから。
それが、尾形に届くのならと。
……田中は、願わずにはいられなかった。


「お前、ホント、…馬鹿」
「馬鹿も結構、幸せかもしれないだろ?
だって、少なくとも俺は、不幸じゃねーもん」
「幸せでもないくせに」
「そんなの、わかんないだろ? 」
「わかる。
少なくとも、井上よりは」
「お前って、……俺の何? 」
「そんな、どっかの低俗な女が言いそうな台詞は、聞きたくない」
「それって、女性蔑視じゃね? 」
「彼女じゃないことだけは、確かだな。
彼氏でもないけど」
「どっちも、かーなーり、嫌だな、それ」


ケタケタと笑いながら答える井上に、ちらりと視線を寄越した田中は。
その笑いを引っ込めさせる視線で井上を見ていたので、井上は渋々肩を落として、田中の言葉の先を、大人しく聞くべく、口をつぐんだ。


「大変なのは、これからだってこと、わかってんのか? 」
「…わかってる」
「この先、尾形さんは、お前にとって…」
「言うな」
「…………」
「言わなくていい。
わかってるから」


静かに。
けれど、覆せない意志の強さを滲ませたその声色に。
今度は、田中が口を噤む番だった。

言われなくても、わかっている、……ことを、誰よりもわかっているのは。
本当は、田中自身だったから。

だから田中は、黙るしかなかった。

そんな田中を見返した井上は、ふっと硬くした声を解いて、話しの続きをした。


「でも、俺さ。
係長が、俺をSPにしてくれたのって。
まあ、そこには、色んな意図があったにせよ。
根本のところでは、…もしかしたら、俺を、テロリストにしないためだったんじゃないかって、…なんか、自分で言ってて、すげーうぬぼれてるみたいだけど、思う」
「なんでそう思うんだ? 」


田中は、井上に奪われたままだったビジネスバックをさりげなく井上の手から取り返すと。
それを元通り左手に下げてから。
右手で眼鏡のフレームを押し上げ、井上に問いかけた。


「俺、SPになってなかったら、麻田を護らなかったし、山西と刺し違えてても、全然可笑しくなかった。
っていうか、俺なら、…やろうと思えば、簡単に、あの二人を殺せた。
違うな。
俺は、あの二人だけじゃなくて。
多分、俺が関わった事件全部、……俺なら、警護対象者だった人間を、全部、……確実に殺せてた」


まるで他人事のような口調で、そう言い切った井上は、そこで言葉を止めると。
田中に鞄を奪い返されたせいで。
だらりと、身体の横に落とされていた右手を、重そうに持ち上げて、その掌に、視線を落とし。
俯いているからか、妙にくぐもった声で、その言葉を吐いた。


「この手はきっと、人を簡単に殺せる」


それだけをいって、その開いた掌を、ぎゅっと握り締めた井上は、そこで顔を上げて、田中を見た。
その目は、もう、先ほどの言葉に潜ませた闇を、映してはいなかった。

だから、田中は何も言わず、井上の言葉を黙って、聞き続けていた。


「だから係長は。
俺を、テロリストにしないためだけに、俺をSPにして、…そして、今も何かを、為そうとしている気がして、ならないんだ」
「……で? 」
「だから、係長が一体何をしようとしてるのか、本当のとこ、俺にはわかんないし。
何のためになのかも、…本当の理由は、わかんないけど。
けど、少なくとも。
俺をSPにしたのは、俺をテロリストにしないためで。
今になって、わざと俺にあんな感情を向けてきて見せるのは、…そうすることで、俺を、あっち側に行かせない為なんじゃないかなって。
なんでだかは、ホントわかんないし、かなり自分本位なものの見方でしかないけど。
けど俺は、…そんな気がして、仕方がない」


そこまで言った井上を見ていた田中は。
一際大きなクラクションの響き渡る、歩道橋の下の喧騒にちらりとだけ目をくれると。
歩道橋の手すりに腰掛けるようにしてもたれかかり、遠くに視線を投げるようにして、顎を引いた。


「ふーん」
「なんだよ、その意味深な感じは」


田中の思わせぶりな口調に、素早く反応した井上は、自分の方を見ようともしない田中に抗議するべく、彼の視線の前に、自分の身体を移動させた。
そして、そのことに気づいた田中は。
視線だけを井上に移して、唇を動かした。


「いや、お前はホントに、何も知らないんだな、…って思って」
「はぁ? 」


田中の意味不明な説明に、大げさに首を傾げて見せた井上に。
わざとらしく、田中はお得意の台詞を、口にした。


「ひ・み・ちゅ」
「お前、マジでウザイ」


田中の口ぶりに、いささかげんなりとした口調で返す井上を見て。

表情を改めた田中は、
「冗談だよ」
と、そんな井上を宥めるようにいった。


その言葉で、ようやく気を取り直したのか。
田中に詰め寄りかけていた身体を離して、井上は言葉を続けた。


「じゃあ、なんなんだよ」
「自分で気づけ」
「……は?
お前、言ってることめちゃくちゃじゃね? 」
「思い出してやれよ、ちゃんと」
「…はい? 」
「井上が覚えているのは、あの日の雨の音だけなのか? 
あの惨劇の中に塗り込められた、悪意だけだったのか?
他には本当に、何も覚えていないのか? 」
「お前、何言って…」


何かを確実に知っていそうな。

そしてそれは、井上にとって、絶対に、無関係ではないことなのに。
けれど、決してそれを語ってくれなさそうな様子の、そんな田中の言葉で。

戸惑いを隠せない井上の声に。

田中は、そうと気づくには、かなりの努力を要するほどの、微妙な表情の変化を見せて。
それに気づいた井上の瞳には、哀しげな表情に見えたそれを動かせないまま。
ゆっくりと、薄い唇で、その言葉を、形作った。


「井上も尾形さんも。
その手はきっと、人を簡単に殺せるんだろうけど。
その心はきっと、人を簡単には、殺せないんだよ」
「…田中? 」
「井上と尾形さんは、抱えてる哀しみの種類が、似ているんだ。
だから、お互いをわかりすぎて、…返って、わからなくさせてるんだろうな」
「そういうもん、…なのか? 」
「そういうもんなの」
「どうせ似るのなら、もっと違うのが、よかったな」


ポツリと残された井上の願いは。
けれど、それが叶わないことを知っている人間にしか出せない声色で。

田中の哀しみに歪んだ表情を、一層深くさせた。


「尾形さんは、お前より少しだけ大人で、少しだけ嘘が上手で、少しだけ弱くて。
そして、少しだけ、……哀しい」
「田中…」


ゆるりと落とされた田中の言葉に、井上は、顔を顰めて彼の名を呼ばわった。


「そんな顔したって、僕は、何にもしてやれないぞ。
僕は、…公安の人間なんだから」


搾り出すように呟かれたその声と台詞のギャップに。
言われた井上は、苦笑を禁じえずに、答えるしかなかった。


「別に、何もしてくれなくてもいい。
ただ、…死なないでいてくれたら、それだけで、十分、…かな? 」


微苦笑を浮かべながら、歩道橋の欄干に右手を添えて、未だ本調子ではないらしい身体を支えるように立ち、田中の方をまっすぐに見てそう語る井上を見返した田中は、少しだけ、己の薄い唇を噛み締めるように顔を顰めると、すぐにいつもの無表情な自身に戻し、明後日の方を向きながら、わざと憎まれ口を叩く為に、その重い口を開いた。


「ついさっき、階段から転げ落ちそうになって。
打ち所悪かったら、死んでたかもしれないような状況に陥っていた人間にだけは、”死なないでくれ”なんて、そんなこと言われたくないし。
そもそも僕は、井上と同じ警察官とはいえ、公安部の人間であって、警備部の人間じゃない。
何が楽しくて、赤の他人の、…人の弾除けなんかに、好き好んでなっているんだかしらないけど。
そんな、なんのためだかわからないようなもののために、自分の命を張ってまで。
皮肉としか言いようのない、”動く壁”なんて呼ばれている、警備部のSPなんぞの井上なんかに、命の心配をされちゃ、僕もおしまいだね」


途中で、大した息継ぎを挟むこともなく。
かといって、感情の起伏も見せることはなく。
そんなことを、さらっと、一気に話して見せた田中を眺めた井上は、困ったように笑って、答えを返した。


「相変わらず、減らず口叩くのが、好きだな、…田中は」
「当たり前だ。
口が減ったら、困る」
「はいはい」


至極まっとうな田中の答えに、笑いをかみ殺しながら、適当に返事を返した井上は、歩道橋の手すりにもたれかかって、自分の方をすでに、見向きもしていない田中の横顔を眺めてから、一呼吸だけおいて、話しかけた。


「なあ、田中」
「…ん? 」
「これって、24時間体勢? 」
「なにが? 」
「俺の行動確認」


井上の一方的な質問をかわすように、適当な相槌を打っていたはずの田中は。
その最後の井上の言葉で、弾かれたように井上のほうを向き、顔を上げた。

が、しかし。
その唇が、何かの言葉を吐くことはなく。
逡巡した視線だけが、思案するように虚空をさまよっていた。

それに気づいた井上は、すとんと肩の力を抜くと、さらりと続きの言葉を言った。


「別に俺は、お前を責めてるんじゃないから。
素直に答えろよ」
「……………」
「なんでそこで、黙るかな…。
なんか、これじゃあ、俺が田中をいじめてるみたいじゃん」
「……責めたければ、責めてもいい。
けど、…辞めるわけには、いかない」
「だからぁ、責めるつもりなんて、最初っからないって。
そうじゃなくて、これは24時間体勢なのか? って聞いてるだけだろ? 」
「……………」
「田中」


普段とは立場が逆転したような。
そんな、井上の宥めるような声に促されたかのごとく、苦虫を噛み潰したような顔をした田中は、諦めたように肩を落として、あまり流暢とは言えない話し口調で、答えを口にした。


「…そうでもない。
でも、今日は井上が非番だから、…とりあえず、夜にお前の部屋の電気が消えるまでが、僕の勤務時間、…かな」
「あっそ。
ちなみに、田中は単独行動? 」


田中の答えなど、ちっとも気にしていない風な井上は、簡単に次の質問を繰り出してきた。
そんな井上の普段と何一つ変わらない飄々とした態度に、根負けしたかのように、気を張るのを投げ出した様子の田中は、そこから先は、さらさらと言葉を続けて言った。


「僕が、人と一緒に、行動するタイプに見えるか? 」
「……見えない。
ってかさ、お前についていけるヤツなんて、そうそういそうにないでしょ? 」
「室伏さんにも、同じことを言われたよ。
……まあ、結論から言うと。
あの人がそう判断してくれたお陰で、僕は、動きやすくしてもらってる」
「あの人、何事にも、”めんどくせぇ”しか言わなさそうな人間なのにさぁ。
意外と人を見る目は、あるんだな? 」


警備部に所属する井上とは、部署こそ違えど。
警察組織という、果てしなく縦割り社会な組織において。
間違いなく、井上よりはるかに、階級も年齢も上の人間である室伏に対して。
ある意味、もの凄く失礼な物言いを、なんの衒いもなく続ける井上に、苦笑するしかなかった田中は、己の上司の援護を試みるというよりかは。
あまりにもな判断をされている室伏の、井上の中の印象を、多少改善すべく、言葉を返した。


「室伏さんは、ずっと公安畑だったから、人の裏側を見るのが、得意なんだよ」
「俺のは、全然見えてなかったみたいだけど? 」
「見えてるよ。
井上は、いつだって、嘘は言ってない。
だから、室伏さんがわからないのは、当たり前なんだ。
あれは、わかっていないんじゃない。
わかっていることが、本当のことだと、…室伏さんが、信じられないだけなんだよ」
「田中って、……室伏さん派? 」
「ちゃかすな。
室伏さんには、井上の本当の姿が、ちゃんと見えているはずなのに。
目の前の井上が言っていることが、嘘偽りのない、ちゃんとした真実なのに。
それが室伏さんの目には、ちゃんと見えているはずなのに。
なのに、…公安が長かった室伏さんには、それがどうしても信じられない。
そんな人間が、こんなところに、本当に存在するなんて、…人の裏側の、汚い部分ばかりを見てきたあの人には、どうやったって、理解できないんだよ」


疲れたように、そう言葉を締めくくった田中を見ていた井上は、どう答えを返すべきか。
幾分考え込むように視線を彷徨わせてから、芝居がかったフリで片手を外国人がするように上向きに上げて見せ、言葉を投げた。


「なんか、人間不信の巣窟みたいだな、それって。
俺は、そんな公安には、行きたくねーって感じ」
「いや、多分。
誰にだって、……お前の考えは、そう簡単には、信じられないさ」
「けど、田中は違うんだろ? 」


かぶりを振って、室伏を擁護する、…というよりも、井上こそが、奇異な存在であることを、暗に語った田中を見ながら、井上は上目使いに、そう言った。
その視線を受けて。
田中は、そこから逃れるように、目を伏せてから、返事をした。


「僕だって、頭では、ありえないと思っているよ。
ただ、世の中にはありえないことが、簡単にありえることを、目の前で見せられているから、信じざるを得ないだけだ。
井上薫が、”普通”って定義じゃ、全くもって、推し量れない存在だってことをな」
「あんまり嬉しくないことを、本人に向かって、そうはっきり断言しなくても…」
「けど、それが真実だ」


どことなく、重い言葉で締めくくったその田中の口ぶりに。
橋の欄干に乗せていた右手を持ち上げ、こめかみを軽くかいてから。
しぼんでしまった、二人の間にある空気を、無理矢理にでも膨らませる為か。

今話していたことが、まるで、どうでもいいことのように話題を切り上げて、話しの矛先を変えた。


「なるほどねー。
ま、この際、なんでもいいけど…。
とりあえず、帰るか」


そういって、つい今しがた、自分が落ちそうになった階段の方へ向かうべく、踵を返した井上の背中に、田中は声をかけた。


「ああ、気をつけてな」


するりと田中の口をついて出た台詞に、背中を向けていた井上が、三角巾に包まれた左腕を庇うように、そっと右肩越しに振り返り、きょとんとした顔をして見せた。


「何言ってんの? 」
「なにが? 」


素っ頓狂な声で呟かれた井上の疑問に、こちらもまた、何が聴きたいのか全く持って予想も立っていないような声で聞き返した田中を見て。
本格的に話をしなければならないことに、先に気づいた井上は、くるりと背中を向けていた身体を、再度田中の方へ戻して。
それが、ごく当たり前のことのように、話した。


「田中も帰るに、決まってんじゃん」
「帰るよ。
……井上の後からな」
「なんで同じトコ行くのに、別々に移動する必要性があるんだっつーの」
「は? 」
「は? じゃないだろ、は? じゃ。
今日は、俺が寝るのを見届けるまでが、田中の仕事なんじゃなかったのか? 」
「別に、井上が変な行動さえ起こさなかったら、これ以上僕は、お前の目に触れるところには現れないから、いないものと思ってくれてたら、いい」
「それって、なんかの冗談? 」


田中の返してきた答えに、眉間に皺を寄せて、見るからに不機嫌そうな顔をした井上は、そう確認するように言うと。
言われた田中も、なにをいいだすのやら、…とでも言いたげな顔で、返事を返した。


「まさか。
あの時、階段の上から、井上が落ちそうにさえならなければ。
僕は、井上の前に姿を見せるつもりなんて、さらさらなかった。
だから、井上の前に姿を見せてしまったのは、僕の失敗だけれど。
そもそも、井上があんなところから落ちそうになったことが原因だったんだから。
お互い様ってことで、今日のことには、目を瞑れよ。
……でなきゃ、僕とは違う人間が、井上にくっつくことになる」
「それは、すげー嫌かも。
ってか、田中以外の人間だったら、下手すぎて、すぐに気づきそうで、嫌」


本当に。
心底嫌そうな顔をした井上の、眉唾物の台詞に呆れ顔を見せた田中は、素早く口を動かして、言葉を返してきた。


「僕は、公安のルーキーだ。
その僕の尾行に気づかなかったくせに、そんな文句言うなよ」
「すげームカつく、その台詞。
お前絶対、自分のこと、お尻の青いルーキーだなんて、爪の先ほども思ってないくせに、そんなことを、平然と言ってるんだろ?
嫌味かっつーの」


ぶつぶつと。
放っておけば、際限なく続きそうな井上の苦情の羅列を止めるべく、田中は肩を落として、その場しのぎにしかならないとわかっていながら、話を締めくくろうとした。


「とにかく。
今日のことは、忘れろ。
その方が、お互いの為だから」
「イ・ヤ・ダ」


田中の懇願に近い提案に対して、一字一句を、思い切りはっきりと、唇を動かして答えた井上に、田中は自分のおでこに手をやりながら、そこで起きはじめようとする頭痛の元を抑えるようにして、井上の名を呼んだ。


「井上…」
「俺は、自分が階段から落っこちそうになったトコを、人様に助けてもらったことを忘れるような、…そんな、恩知らずな人間じゃないし。
田中が、この寒空の下で、俺が寝るまで待ってなきゃいけないってわかってて、部屋ん中で自分だけヌクヌクとのんびり読書なんて、いくら俺でも、そんなことを平気でなんかやってられない」
「そんなこと、井上が気にすることじゃない。
これが、僕の仕事なんだから」
「俺は、気にする。
田中の仕事を否定するつもりは、毛頭ないけど、何をしていようと、お前はお前だろ?
俺は、今日仕事休みだし。
だったら、今の俺にとっては、お前は田中一郎であって、公安の田中じゃない」


自分の方を見ている田中に向かって、何の気負いもなく、さらっとそんな言葉を募って見せた井上を、怪訝な表情で見つめた田中は、ゆっくりとその唇を動かして、問いただした。


「……井上。
お前、今、僕に何されてるか、わかってる? 」
「護衛? 」


本当は、わかっているくせに。
それでも、にこりと笑って、そんな回答を出してみせる井上に、指先で眼鏡のフレームをぐいと押し上げた田中は、眉根を寄せて、言葉を返した。


「……馬鹿、監視だ」
「そっか?
ま、どっちでもいいじゃん。
なんにしろ、俺は今日、SP休みだし。
仮にSPだったとしても、その護る側のSPが、公安に護られるなんて、貴重な体験も出来たことだし。
結論から言うと、俺が田中に助けられたことに、なんの変わりもないってことだろ?
だから、そのお礼に、俺んちで、晩飯食ってけよ」


口の両端を奇麗に持ち上げて、先ほどから浮かべている笑みを絶やすことなくそんな台詞をのたまった井上を、虚をつかれたように、眼鏡の奥の目を瞬かせて見つめた田中は、困惑気味の声を発した。


「…本気か? 」
「本気も本気。
っていうか、こんなことで、嘘ついてどーすんの? 」
「信じられない。
なんでそんな風なんだよ。
なんで…。
いつも、いつも、井上は、なんでそうやって…。
だから、室伏さんも」
「室伏さんの話しは、もういいよ。
ってか、係長の話しも、もうナシな」


井上の言葉を否定するかのごとく、左右に首を振りながら、抑えきれない感情の発露を、どうにかして沈めようと、搾り出すようにそういう田中を宥めるように、井上はすとんと、その言葉を落とした。


「確かに、田中は公安で、俺はSPで。
でもその前に、俺もお前も、人間だから」


その井上の言葉で、それ以上何も言えなくなってしまった田中は、口をつぐんで俯くしかなかった。
それは、酷く田中らしくない態度であり。
逆にいうと、井上の知る、田中らしい態度でもあったそれに。
伏せられた田中の顔を、覗き見ていた井上は、肩頬だけを上げてふっと笑うと、くるりと背を向けて、さっさと歩き出そうとしながら、口を開いた。


「あ、帰りに、成城石井にでも寄ってこーぜ。
久しぶりの休みだから、俺ん家の冷蔵庫、見事に空っぽ」
「……いつもだろ? 」


それほど力のこもった声ではなかったが、それでも、普段のお互いのやり取りに近い田中の憎まれ口に、背中を向けたままの姿勢で笑みを深くした井上は、それをするりといつもの表情に戻して、後ろを振り返って言い返して見せた。


「もしかして、公安って、人の家の冷蔵庫の中まで、調べてるのか? 」
「そんなわけないだろ。
井上の部屋の冷蔵庫が空っぽなことくらい、僕でなくても、誰にでも想像できることだ」
「尾形さんと同じこと言うの、やめてくんね? 」
「なんで? 」
「前、尾形さんも、俺がぶっ倒れてて、俺ん家に来てくれた時、お粥作るための材料と道具を、そういいながら、ちゃっかり持参してた」
「材料、…は、わかるけど、道具って? 」
「いや、実は俺の部屋。
そのときは、警察学校卒業してすぐだったし、帰って寝るだけの生活だったから、キッチンにガスコンロも用意してなかったんだけどさ。
なんか尾形さん、どこ情報か未だにわかんないけど、それ知ってたみたいで。
お粥作るためにって、雪平とカセットコンロを持参して、ついでにそれ、置いて帰ってくれた」


初めて聞かされる、井上のあまりな生活態度に、呆れるのを通り越して、もう、言葉も出ないって顔をした田中は、それでもなんとか言葉を続けることに成功していて、言われた井上は、ばつの悪そうな顔を浮かべるしかなかった。


「井上、…お前、ホント、なにやってんの? 
生活能力がなさ過ぎる、…というよりも。
人として、普通に生きるということ自体を、放棄してるんじゃないのか? 」
「それも、尾形さんに言われたから、もういいっつーの」
「あっそ。
で、それで何するつもりなんだよ」
「鍋?
やっぱ、冬は鍋っしょ。
一人じゃ出来ない料理だし」
「鍋ねぇ…」


話が夕食のメニューに映ったことで、とたん声に張りを取り戻し、ニコニコと擬音語が浮かんできそうな表情をして答える井上を、眉間に皺を寄せて眺めた田中に、首をかしげた井上は、探るような声で、尋ね返していた。


「田中って、…鍋は嫌いなのか? 」


その的外れな質問に、頭を抱えたくなる想いをどうにか押しやって、田中は答えを返してやった。


「この際、好きとか嫌いとか。
そういう次元の問題じゃないと、僕は思うけど」
「じゃあ、なんなんだよ」


ぷうっと頬を膨らましそうな勢いで聞き返す井上に、盛大なため息をついてから、田中はその台詞を口にした。


「監視してる側の僕と、監視されてる側の井上が。
こともあろうに、尾形さんの用意した、雪平とカセットコンロを使って、鍋をつつくとはね…」
「なんか、問題あるか? 」
「この場合、なんの問題もないと思ってる井上が、可笑しいって。
…僕がそれをいったところで、お前はそれ、認めないんだろ? 」


投げやりにそういう田中を見ていた井上は、眉尻を下げて、破顔した。


「笑うな。
ここ、絶対に、誰がどう考えても、笑うところじゃないから」
「いいじゃん。
俺、田中と鍋できるの、嬉しいもん」


唇から白い歯を零してそういう井上は、それだけを田中に伝えると、くるんと田中に背中を向けて、今度こそ、勝手に田中がきちんとついてくるだろうことを確信しているとしか思えない態度で、体調の悪さを反映したのだろう。
わずかばかりに、重そうな足を動かして、家路へ向かい始めていた。


「なあ、井上」
「ん? 」
「僕って、井上の何? 」


さっさと前を歩く井上に、足音も低くついていっている田中は、歩きながらそんなことを口にして、言われた井上は、歩を緩めて問い返した。


「なんだそれ。
さっきの意趣返しか? 」
「いや、…素朴な疑問」
「あっそ。
で、答えなきゃだめなのかよ」
「嫌ならいい」
「諦め、はやっ」
「潔い、と言え」
「さすが、理屈をこねるのが得意な、公安期待の新人サマ。
ものは言いようだよなぁ」
「もういい」


井上のまぜっかえすような言葉遊びには、端から付き合う気のない田中は、さっさと話を切り上げさせてしまった。
が、井上は。
一つだけ、田中に気づかれない程度に息を吐くと。
もしも、警視庁からさほど離れてはいないこんな場所で。
他の公安の人間、もしくは警護課の人間がその姿を見ても。
なんのかかわりもない二人が、歩道橋の上を、ただ、歩いている。
そんな様子にしか見えないように、わざと並んで歩くことをせず。
そのため、すっと、肩越しに後ろを一瞬だけ見た井上は、すぐにその顔を前に戻して、独り言を聞かせるように、その言葉を口にしていた。


「同期」
「そのまんまだな」
「仲間、友達、…親友?
それって、なんか、違うよな…。
そうだなぁ…。
強いて言うなら、……戦友、ってとこかな? 」
「なんだ、それ」
「戦って、勝って、…それで、一緒に生きて還るのが、俺たちの目標? 」


そこで、階段まで辿りついた井上は、その足を一段一段、慎重に下に運びながら、斜め上にある田中の顔をちらりとだけ振り返って、そう言った。


「井上のそれは、4係の人間だろ? 」
「4係の皆は、仲間でいいんだよ。
石田さんたち三人を戦友にしたら、…いろんな人に、俺、恨まれそうだから」
「…は? 」
「たとえば、可愛い娘の千花ちゃんとか、娘の無事を心配するご両親とか、ホントにいるのか疑わしいけど、学生時代から付き合ってるらしい彼女とか? 」
「井上。
お前、なんでそんな…」
「さすがの田中も、そこまではまだ、リサーチできてなかったか? 」
「巻き込んじゃいけないって、思っているのか?
尾形さん以外の人間を」
「そういう意味じゃないよ。
そりゃ、自分の意思で始めた人間と、そうでない人間が、同じリスクを背負うのは、違うと思うけど。
ただ、戦友は、…田中だけで十分、ってだけで。
それがイコール、他の人間を巻き込んじゃいけないって訳でも、田中を巻き込んでもいいって訳でもないし。
そもそも、巻き込むも、巻き込まないも。
起きるもんは、ほっといたって、現実に起きるし。
避けようのないことは、どのみち、避けようもなく、起こりうるだろ?
結局、どうやったって、こんな仕事をやっている以上、どんなに危険を避けたところで、それは、向こうから勝手にやってくるようなもんなんだしな。
だから、俺が言いたいのは、そういうことじゃなくて…」


途切れることなく、そんな言葉のやり取りを続ける二人は。
それでも、その足を止めることなく、一度は井上が落ちかけたその歩道橋の階段を下り続けていた。
ようやく階段を下りきった井上は、そこで歩を止めて、数段上を下りてきていた田中を振り返ると、ふと顔を上げて、その質問を投げてきた。


「あ、けど…。
もしかして、お前、迷惑だった? 」


その問いかけに、渋い顔をした田中は。
数歩井上から遅れて階段を降り切り。
隣に並んだ井上をじっと見てから、ぽそりとその答えを口にした。


「……そうでもない。
背中を預ける相手が井上だったら、後ろからやられる心配だけは、しないで済む。
そんな相手は、そうそういない」
「だったら、いいじゃん。
寒くなってきたから、早く帰ろうぜ」


吊られた左腕の上から、無造作に掛けられただけのダッフルコートの端を、右手でずり上げた井上は、寒そうに身をちぢ込ませて見せて。
再び、今日が初めての監視ではないはずの田中が、とっくの昔に井上の自宅を知っていることなど百も承知だったが。
それでも、先を案内するかのように、さっさと田中の前を歩き出した。


「なあ、一つだけ、聞いてもいいか? 」


包帯に巻かれた腕の分だけ、ぎこちなく身体が傾いた姿勢のまま、前を行く井上の薄い肩を眺めながら、後ろを歩く田中は、力のこもらない声で、するりとそんなことを言った。
言われた井上は、歩きながらそれを聞き、振り返ることもなく、返事を返した。


「なにを? 」
「あの時…」
「ん? 」
「あの時、井上は…。
本当に、あれでよかった、…って、思っていたのか? 」


田中の言うあのときが、どのときかだなんて。
今の田中の問いかけでは、決してわかりようもないはずなのだが。
すんぶ違わずに、田中の聞こうとしていることの意図を図りとった井上は、間髪入れることなく、その答えを口にした。


「良かったのかどうかなんて、俺にだってわからない。
ただ、…俺が、あの時、アトリウム記念館で、麻田の演説を聞きながら、自分の中で想像したことを、実際に口に出したら。
もしくは、あのコンサートホールの舞台の上で、麻田を背に、山西と向き合ったときに思ったことを、話して聞かせたら。
俺は、即警察をクビになって、それこそ、公安の人間に、要注意人物として、一生付き纏われるだろうけどな」


歩くスピードをかえることもなく、そんな空恐ろしいことを平然と口にした井上の背中に。
予想できていたこととはいえ、井上があの場でなにを考えたのか。
それが、わかりすぎるほどにわかってしまった田中は、ぎゅっと目を閉じて、けれど、それをぱっと開いた後には、なんの感情の機微も伺わせない口調で、話しの続きをした。


「でも、井上は、そうしなかった」
「出来なかったんだよ。
正確に言うなら、…な」


出来なかったと答える井上の背を見ながら、田中は心底思った。

あの場でそうすることは、赤子の手をひねるほどに、簡単なことだった。
なのに。
そんな、平易なことを、”出来なかった”と言えること自体が、田中に深い息をつかせるにたるできごとだった。

3つ数える間分くらいには、深いため息を落とした田中は。
何事もなかったかのように、自然と前を歩く井上の姿から視線を外さずに、言葉の先を紡いだ。


「山西が語ったことの半分は正しいと、僕は思う」
「……何が? 」
「SPとして、簡単に挿げ替えの利く要人を、命がけで護ることに、…一体、なんの意味があるのか、僕も全く理解できない」
「意味なんかないよ」


田中の、あの場で山西の語った、……井上たちSPのアイデンティティーを、根底から覆しかねない問いかけに対して。
井上は、あっさりと、なんの意味もないと、答えて見せた。

そのことに、戸惑いを隠せない田中は、ゆるゆると、次の質問をしようとしたが、迷いのない井上の淡々とした答えに、それは阻まれた。


「じゃあ、なんで…」
「意味なんかないけど。
けど、あの二十年前の雨の日から、俺が何を思って生きてきたのか。
それを話したとしたら、俺は、警察官ではいられなくなる、……確実に。
そういう人間なんだよ、俺は」
「でも、井上は、SPを辞めない」
「…だな。
SPでいることが、人でいることの、ボーダーラインだからなのかもしれないし」
「だから、井上は、SPでいるのか? 」
「それだけじゃないよ。
ただ、俺みたいな人間が、これ以上この世界に増えることを、俺は望まない。
そんな、不幸な人間を増やすだけのようなことを、……俺は、出来れば、したくない」

 

二十年前の出来事は、確かに、不幸の連鎖を呼んだのかもしれない。

実際、二十年もの月日が経った今になって。
山西は、麻田を殺めようとし。
井上は、それを命がけで阻み。
そんな山西を、尾形が撃った。

それで全てが終われたのかといえば。
決してそんなことはない。
きっとまだ、何一つ終わってなどいない。

だからこそ。
井上の状態は、悪化の一途を辿り。
尾形の態度は、井上に不信感を抱かせるものに、変貌したのだから。

ならば、二十年前のあの雨の日から連綿と続く不幸の連鎖は。
未だに、何一つ解決などしていないのだ。


それがわかっているから。
自分と同じように、苦しむ人間を増やしたくないという井上の想いは、田中にだって理解できる。

それは、ある意味理想だった。
謂れのない不幸に苦しめられた人間の全てが、自分が苦しんだ分、他の人間がそうでなければいいと。
そう思うことが出来れば。
この世界の明日は、もっと違うものになるのかもしれなかったから。


けれど、自分が不条理に苦しめられ続ける現実を前に、そういい続けられる人間は、そうはいないとも、田中は思った。


だからこそ。
前を向いたまま、真摯な声でそれを語る井上を見ていた田中は、その声を聴きながら。
なぜこの想いが、世界に届かないのかと。
訳もなく押し寄せる悔しさに、きつく唇を噛み締めることしか、できなかった。

 

「救える命なら、救いたいと、俺は思う。
例えそれが、…どんな人間であろうとも」
「……馬鹿」
「さっきから聴いてたら、お前、人のことをバカバカ言いすぎだ、バカ」
「馬鹿に馬鹿っていって、何が悪い」
「そんなに言われたら、ホントにバカになった気がするから、やめろって」
「本当に馬鹿だ、井上は」
「ああ、そうですか」
「馬鹿だよ、本当に」
「ハイハイ、わかりました。
バカでいいですよ、バカで」


言い始めたら、簡単には折れない田中を誰よりも熟知している井上は、いい加減な口調でそう返し、歩くことで少しばかり落ちかけていた左肩のコートを、ぐいっと右手で引っ張り上げながら、スタスタと、行き交う人の波を奇麗に避けて、足を動かしていた。


「そこまでして、人を護ろうとすることの理由は、…一体、なんなんだよ」


押し殺したような、その田中の問いに。
トンと、両足を揃えて立ち止まった井上は、ゆっくりと後ろを振り返り、自分の背に視線を縫いとめていた田中と向き合って、まっすぐに彼の目を見つめ返した。

そして、ゆっくりと息を吸うと、抑え目のトーンながら、妙にはっきりと聴こえる声で、その言葉を、唇に乗せていた。


「理由なんかない。
でも俺は、目の前で人が死ぬのは、見たくない。
その為に、目の前の命を、…その人を、護るSPになった。
だからそこには、理由なんか必要ない。
ただ、護りたい。
それだけ」

 

”ただ、護りたい”

その言葉を、現実のものとするために、一体どれほどの苦難を伴うのかなど、推して知るベしといったところで。

なによりそれは、決して、
”それだけ”
などと、簡単にいえる様なことではないことは、誰にだってわかることだった。

もちろん、警察組織というだけではなく、その中の公安部という、特殊な場所に身をおく田中にとっても、わかりすぎるほどにわかることで。
しかも、自分の命を盾にして、人を護ることが職務の警護課で、SPというより一層特殊な立場にある、尾形にはもちろんのこと。

そして、ことのほか。
いま自分が上げ連ねたほかの誰よりも。
そのことを一番、自身の身を持って知っているはずの井上が。

その井上こそが、”ただ、護りたい”と。
そしてそれを、”それだけ”などといえること自体が、稀有なことと言えた。


その稀有な存在は、その言葉に、一点の曇りもなく、生きてきて。
真摯に現実と向き合い、穢れなきその瞳で、闇に染まった世界を、ずっと見つめ続けてきたのだ。


”ただ、護りたい”


その、理由なんかない。
揺ぎ無い、想い一つを。
人知れず、胸に刻んで。

 

そうやって、まっすぐに自分を見てくる、その透明な色をした井上の瞳だけを。
その向こうに映された世界を、覗き込むように見ていた田中は。
不意に、鼻の奥がツンと痛くなる感覚に、そこから目を逸らした。

瞼の裏が、やけに熱くなるそれに、田中はそっと目を伏せた。

 

悟りは、一瞬だった。

だからか、…と、田中は、理解した。

 

この瞳を、20年前に。
あの雨の日に、あの状況の中において。

それでも、青年だった尾形は、少年だった井上に、この瞳を見せられたから。

だから、その瞳に魅入られ、そこから目を逸らすことを、他にも多くの人間がいたはずのあの場で、ただ一人。
青年だった尾形だけが、それをよしとしなかったから、今の尾形はあるのかと、……なんの根拠もなく、その刹那。
ただ、田中は、そう感じた。

 

それほどに。
その井上が浮かべる瞳は、田中の中の何かを、大きく突き動かして。
止めようもなく、激しく、揺さぶっていた。

 

二十年前の、あの雨の日に。
この瞳に映されたものは、両親の死と、人の悪意と、そんな目を覆いたくなるような、醜悪な世界だったはずなのに。
決して、その瞳を閉じようとはせず。
あの日から、二十年の時が経った今。
この瞳が見ようとしているものは、そんな醜悪な世界とは、まるで正反対の未来であることに。


田中は、かける言葉さえも失い。
ひたすらに、その心のうちで、その想いを刻んでいた。

 


もしも。
そう、もしも。
もしも、天に情けがあるのなら。


どうか。
どうか、彼らの願いが叶う明日を、この世界に。


この世界から、人の心に巣食う悪意が消えることはない。
人の命が、無碍に奪われることがなくなることも、ありえない。

だから、たとえそれが、一時の夢だったとしても。


それでもいい。
それでもいいから。
その為に、彼らの費やした時間の全てを、どうか無駄にしないで欲しい。


もしも、天に情けがあるのなら。


どうか。
どうか、この想いが、聴き届けられる今日を、切に祈る。


その為に、差し出せるものが、この手にあるのだとしたら。


そうであるならば。
何を差し出してもかまわないとすら思った、尾形の切なる想いを、今。


踵を返して、自分の前を歩く、井上の背中を見つめ。
田中は、尾形願ったそれと、同じ想いを抱きながら。

その祈りとも願いともつかぬ、それらを凌駕したであろう、切実なまでの誓いを。
痛いほど、その胸に、感じていた。

 


「井上」
「なに、まだなんか、あんの? 」


立ち止まったままの田中を残したまま。
さっさと歩き出した井上を、硬い声で呼んだ田中に、井上は振り返りもせず、答えた。


「井上」
「だから、なんなんだよ。
はっきりいえよ、はっきり」


自分の名を呼ぶだけ呼んで。
けれども、それ以上の言葉を紡ごうとはしない田中に焦れた井上は、ようやく足を止めて、ぐるんとめんどくさそうに振り返ると。
自分をまっすぐに見てくる田中の、静かな表情に、表情を改めた。


「井上」
「…田中? 」


田中が、ふざけた気持やいい加減な気持で、自分の名前を、何度も呼んでいるわけではないことを、瞬時に悟った井上は、首を傾げるようにして、田中の名前を、呼び返した。


「天若有情」

ぽつりと零された田中の言葉に、井上は小首をかしげるようにして、その言葉を口の中で、繰り返した。

『天若有情、……若しも天に、情けが有るのなら』

という、その、遥か昔の詩人が詠んだ。
その願いのような、それを。


「は? …李賀か? 」
「お前、それって、信じる? 」


なんの修辞もいれずに話される田中の言葉に。
先ほど自分が薦めた漢詩の一節を持ち出して、そう尋ねる声に。
怖いくらいの真剣さを読み取った井上は、遠くを見るような目をして、その答えを、…想いを、口にした。


「…そうだな。
できれば、…信じたい、…かな? 」


そういって頬を緩めて見せた井上の。
その浮かべた笑みの儚さが、胸を刺す痛みを飲み込んだ田中は。
それを気づかせないほどの、凪いだ声で、話しの続きを、その唇に、静かに乗せた。


「井上。
尾形さんは、もう一人の、お前だよ」
「えっ? 」
「救える命なら、救いたいんだろ? 」
「ああ」
「けど、一番救われたいのは。
いや、救われなきゃいけないのは。
井上自身であり、尾形さんだってことを、…忘れるな」
「お前、何言って…」
「井上。
諦めるなよ、……何があっても」
「…田中? 」
「尾形さんを救ってやれるのは、井上。
お前しかいないんだから」


静謐な声で囁かれる、田中のそれに。
一瞬だけ、わずかに目をみはった井上は。
その次の瞬間には、首の骨が軋むのではないかと思えるほど。
ゆっくりと、けど確実に。

こくんと。
そうやって、重く、深いうなずきを返した井上は。
降ろしたときよりも、更に時間をかけて顔を上げると。

持ち上げたかんばせをまっすぐに田中へ向けたまま。
小さく笑って、その言葉を呟いた。

そして、言われた田中は。
彼が、滅多と見せることのない、薄い笑みをその頬に浮かべて、最後の言葉を口にした。

 



「……できれば、いいな」
「できるさ。
もしも、天に情けが有るのなら、…な」




END



SPSPのあと、…っていうか、予想通りに、一歩も前に進んでない感じの(←暴言)SPSPだったので、…あのエピソード4のラストと同じ、尾形さんと井上くんの対峙シーンの翌日、…って設定でコレを書いたのですが。
普通に考えて、アレの後にこんなのがくるって考える、ってか、妄想してる成瀬って、…かなりバカ?
ってか、楽天家過ぎ?

いやいや、でも成瀬は、尾形さんと井上くんの関係も。
はたまた、田中君と井上くんの関係も。
こんな感じであって欲しいと願ってるので、こういうお話になりました。

なんだか、賛否両論受けそうな話運びですが。
とりあえず、SP<劇場版>が来るまでは、何かいても捏造にはならないので、妄想を続ける成瀬を、お許し下さい。


ええ、妄想が暴走し続けている成瀬の次回作は、「ついている男」のラストと思いきや、多分もう一本、暗い(←自分で言うな)話だと思います。

西島さんと尾形さんが、井上くんのことを話してるお話。
ええ、あの西島さんがお亡くなりになる、前日のお話の予定(ええ?)

そこを捏造する私って、かなりいけてない人の気がしますが、西島さん好きなんで、最後にコレだけは、書かせてやってください、ハイ。


というわけで、そんな作でもお許しいただける方は、次回作『Keeping the faith.』を、ご覧下さいませ。。。
とりあえず、GWくらいには頑張って書きたい!(←希望的観測)


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SP 革命前夜。。。 [ドラマ「SP」パロディ小説関連]

真下の記事で、3月まで待てないとかほざいてたあほは、私です。

はい、今何月で、下の記事を書いたのは何月のことなのか、ちゃんと自覚はありますので、許してください。

そして、未だにこんなへたれ人間が書いてる作でも、PASS請求してくださる方々いらっしゃることに、涙が出そうです。
とりあえず、お待たせしまくりましたが、今日、数週間溜め込んでた処理を終えました、本当にMAX待たせた方々には、大変申し訳なく思っております。

言い訳は、下記で。

ええ、ホント、涙でそうです。
こんなワタクシなんぞの作でも読んでやろうって方がいてくださることに感謝の涙。
それなのに、不甲斐ない自分に、懺悔の涙。
そしてなにより、本日のテレビっていうか、井上君っていうか、(自称(苦笑)→)尾形さんっていうか、4係って言うか、田中君って言うか、とりあえず、なんか、なにいってんのか、わかんなくなってきましたが、これで終わりのSP劇場版公開日が近づくにつれて、井上君並に(は?)不安的になってきた成瀬には、今日の革命前夜は(リアルには前夜じゃないですが(笑))あれみただけで、すでに泣きそうになってるんですけど。

いや、とりあえず、色んな意味で、涙、涙でした、ハイ。

っつか、私あほな人間の癖して、ひとえに、SPへの溢れんばかりの(←いい迷惑)愛情だけで、つっぱしった捏造を書き連ねておきながら、こんなこというのはなんですが、愛って偉大。

だって、成瀬の捏造が、捏造スギって事はなくなってきた気がする。
っていうか、多分、ある意味成瀬が一番望んでる最後になってる気が、してきた。
いや、多分、した。

もちろん、涙なしには見られないけど、見に行く勇気がわいてきました、ハイ。

やっぱ、前回の劇場版の尾形さんが、尾形さんの全部じゃなかったし。
それに気づいてる井上君にも、ほっとした。

今ものすごく、書きたいんだけど、書きたい熱が溢れているんだけど、でも、書く時間が、正直、ない。

で、ここで言い訳を一つ(待てコラ)

実は、成瀬姉がこの4月から保育施設を開設することになりまして、年末からこっち、ずっとそれの準備に追われていました。
いや、今現在も、追われています。

まあ、成瀬は成瀬で、自分の仕事をしながらなんで、めっちゃ忙しいんですけど、やりがいはあるかも。
大学でてから、ずっと仕事してきましたけど、すればするほど、本当にしたい仕事って、雇われの身じゃなかなかにむずかしいってことを、実感します。
もちろん、今の状態だと、今の会社のサラリーのがいいし、とりあえず肩書きも扱いも悪くはないのですが、だからといって、全部が全部自分が本当にしたいしごとなのかって言われたら、そうでもない気がして。
まあ、こんなご時世に、それはわがままっていうもんよっていわれればそれまでですが、一度しかない人生なんで、やりたいことやっとかないとってのも思いますし、姉がオーナーになるんで、私がそっちへ移るのは簡単なんですが、もうしばらくは、きちんと自分の仕事をしてからと思ってるので、実働で言うと、月に数回手伝うだけになりそうですが、事務的なことはほとんど私がしてるんで、もう、猫の手どころか、誰の手でも借りてきたいくらいです。

笹本さんじゃないですけど、一ヶ月のうち30回くらいは、仕事やめたいって思ってます。
いや、それじゃあ、井上君にほぼ毎日だと突っ込まれてましたが。
ってか、2月は、30日じゃ、そもそも足りてないし。
っていうのは、冗談ですが。

いや、私も月に3回くらいは、辞めたいって思ってるかも。

でも、仕事ってそういうもんだと思います。

保育施設に移ったからといっても、毎日大変なのもわかりますし、真剣にやればやるほど、多分、”子供ってかわいいから、楽しい”なんて、のんきなこといってれらないってのは、保育実習を短期間だけかじったことのある成瀬も、多少なりとも理解はしていますし、そもそも成瀬はインドア派だから、体力に自信がないので、実はあんまり向いているとも思えないのですが、出来ることは人それぞれでいいと思って、日々勉強中って感じでしょうか。
なので、将来的に、姉の保育施設に移っても、今の職種とは180度くらい違う仕事になるんで、月に3回くらいは辞めたいって思ってるかもどころか、月に10回くらい辞めたいって思うかも?って感じがしないでもないのですが、人間成長していく生き物のはずなんで、とりあえず、今自分にできることに全力投球!

あ、ここは、全然全力投球できていませんけど。
とりあえず、絶賛更新停滞中で、サイコロでいうところの1回休みどころか、スタートに戻る。位のレベルの進み具合ってことは、認識していますので、こんな成瀬でも許してくださる寛大な方、募集中(は?)

いや、でも、成瀬はここがあるから、成瀬でいられるわけですので、なんとか時間をやりくりして、今この胸に抱えてるもやもやを、早く文字にしたいです!

それまでどうか、気の長い方、お付き合いいただけたら、幸いです。

ちなみに、更新が止まっていることで、かえって気を使わせてしまっている皆様、申し訳ありません。
どうぞ、気にせずPASS請求や、メールもお待ちしておりますので~♪

というわけで、さっきテレビ見終わって、なみだ目になりながらこれを書いてるアホなんで、明日読み返したら、気持ち悪いこと書いてるかもしれませんが、見なかったことにしてやってください(だったら書くな)

では、また~。
次は、映画公開後か?
いや、その前に、恒例の3月9日?(笑)


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SPパロディ小説サイトのパス請求について [ドラマ「SP」パロディ小説関連]

SP劇場版、公開されましたね。。。(感慨)

いやでも、とりあえず3月までは、話が全然完結してないんすけどって感じで、まだSPがみれるから嬉しいやら、でもそれで終わるんだって思ったら哀しいやら。
と、とち狂いそうな成瀬ですが、皆様お元気でいらっしゃいますか。

はい、週末に劇場へおこしになった皆様。
成瀬は、せつな過ぎて、眠れません(いや、寝てるけど)
っていうか、落ち着きどころをどこにもって行くかなんて、もうあそこしかないって感じなんですけど(どこやねん)
3月まで待てません。

っていう、成瀬並みにこらえ性のない方は、観覧を控えた方が。。。

いえ、嘘です。
みなさん、ぜひ劇場へ足をお運びください。

曲もドラマ版のまま使っていただいて、感涙です(知ってたけど(笑))

家に帰って、PV見直して、涙した成瀬はアホの子です。
でもいいの、シアワセだから(ぶほっ)

そんなこんなな井上君熱がまたも再燃。
いや、ずっと燃え滾ってたけどね、成瀬の中では(甚だ迷惑)

同じように感じていらっしゃる方も多いのか、PASS請求がまた増えておりまして、追いつくのに大変。
皆様、ありがとうございます。

本日現在まだの皆様の対応はすんでおります。
一部、SPサイト用のパス請求すべきフォームではなく、誤って本家の秘密部屋のPASS請求フォームをお使いの方がいらっしゃいますが、SP用を請求されていると文面から推し量れる皆様には、SPサイトのパスのみを送信させていただいておりますので、ご了承ください。

そうでなくて、本家のV6のPASS請求だったんだい!っていう方が居られましたら、成瀬まで苦情メールをお寄せください。
勘違いしてすみませんでした。。。と、お詫び&PASS送付させていただきます。

ちなみに、SPサイト用のPASS請求は、ここのサイドバーにある、SP専用サイトへのリンクをたどっていただいて、SP専用サイト「no-fake」のトップページにありますフォームを使ってくださったらOKですので。

秘密部屋のように、頭を悩ませていただく必要性は一切ございませんので、人並みの良識をお持ち合わせのかたでいらっしゃったら、来るものは拒まず、去るものは追わずの成瀬なので、ご安心ください。

そして、フォームでご感想、ご意見など頂戴しているみなさま、本当にありがとうございます。
こちらは、対応が追いついておらず大変申し訳ございません。

お詫びじゃないですが、今、ようやっと「ついている男」だけでもフィニッシュさせるべく頑張ってるので、お許しください。

というわけで、取り急ぎお礼と、お詫びと、ご報告まで


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